[404 Blog Not Found] 今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき
自らの業績を「あくまで延命策」と謙遜し、その上で、最も必要とされながら未だ世に存在しない「日本語をコンピュータ上で扱うためのきちんとしたアーキテクチャ」への指向を垣間見せる良エントリ。
とでも書いておけば万事丸く収まるのだろうか。
小飼弾氏に関して「所詮マッチョだから」カードと「所詮自慢話だから」カードのコンボが面白いように決まる理由は、このエントリからも見出す事が出来る。理という筋肉を過剰なまでに鍛え上げ、見せつけるボディビルダー。そしてその汗臭さ。合理への道は神経症への道でもあるということは、彼ほどの知見があれば気付かぬはずが無いのだが。
「水村美苗のように文化論的に語る事は出来ないが、文明論的に語る事なら出来る」という言からは、著者に対する謙遜というよりは、自らが摂取してきたものに対する過信と思い上がりが窺える。
彼の文明論が、武将の名前をずらずらと並べるだけの三国志厨と同水準であるということは、これまで披露されたエントリからも明らかなのだが、それに気付かないもしくは気付かないふりをしているという状況が見受けられるのは、彼および彼の周辺に裸の王様とその取り巻きという物語類型が成立しているからであろう。
彼の誤謬、彼の文明論の底の浅さは、彼の依拠するところであるコンピュータ・サイエンスの人文に対する洞察の未発達性、底の浅さに根を持つ。必要なのは「いまだコンピュータ・サイエンスはサイエンスたりえていない」ということを謙虚に認め、そしてそのさらに奥にある「サイエンスは『サイエンス』たりえない」という、今から丁度1世紀ほど前に噴出した諸事について再検討する事であろう。
シャノンもノイマンもチューリングも、自身の言説を不磨の大典として扱われる事には反対するに違いない。彼らもまた、積み重ねられた人文の深みに到達せんとしてコンピュータ・サイエンスの道を拓き、後事を我々に託したのだから。完成した体系としてでなく、我々の手で構築し続けるものとしてのコンピュータ・サイエンス。彼の意識にもそれはあるはずである。
だが彼は今や、自分自身が「瑣末な実装に血道を上げる奴ら」の一員であることを露呈してしまっている。人文をも理の構成要素として喰い散らかす彼は、相変わらず理の餓鬼道を逝くしかないようだ。
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