2009年10月30日金曜日

[メモ][Google] jQuery の中の人が Google Groups に三行半

[John Resig] Google Groups is Dead

要は「SPAM 大杉。やってらんね」ってことで、John Resig 自身は
Only a bottom-up overhaul of the Google Groups system would be able to fix the problems that every Google Group faces.
と、Google Groups が直面している問題を解決するにはボトムアップでシステムの修復をやっていくしかないと述べている。

この「ボトムアップで」というくだりが、私には婉曲的に見える。John Resig は Google Groups のモデレーション機能のアホさ加減やスイスドメインを使った偽装チートの例を槍玉に挙げるに止めているが、Google Groups がメーリングリストベースである以上、どう考えても GMail のスパムフィルタDBを利用出来れば問題の大半は解決出来るはずだからだ。

ということで、この問題の根底にあるのは Google という組織の硬直化であるという結論に至った。Google の各サービスがあたかも縦割り組織のようになってしまい、その結果サービス間の連携がとれなくなっているからこういったことが起こるのではないかということだ。以前、 Google が大企業病に罹患しつつあるというネタをうpしたのだが、本件の様な事例を目にすると、やはりそうだったのかと思わざるを得ない。

2009年10月29日木曜日

[37signals] お金儲けは、ピアノと同様、練習が要る

(原文: Making money takes practice like playing the piano takes practice)

私の知っている「金を生む機械」然とした人々の多くは、驚くほど早いうちから事業を始めている。レモネード屋さんとか洗車屋さんとか芝刈り屋さんとか野球カード屋さんとか。彼らがこんにち「金を生む機械」となるに至った理由は、いち早く事業を始めたからなんだと私は思っている。彼らはいち早く交渉術・価格設定・販売手法・市場動向の見極めに関するスキルを習得した。販売の場において他の多くの人たちよりも稽古を積んでいるのだ。彼らが他の人に抜きん出ている理由の一つがこの点にある。

ピアノを弾けるようになるには練習が要るのと同様、お金儲けにも練習が要る。たくさん練習をしなくてもピアノが上手くなれるなどと考える人は皆無だ。お金儲けも同じ事。練習すればする程うまくなる。10年間ピアノを練習してきた人が容易くピアノを弾きこなすのと同様に諸君のお金儲けも練習の末にようやく容易いものになる。

私が起業家に、他の会社から資金提供を受けるよりも独立する方を薦める理由の一つがこれなのだ。独立した企業というものは第一日目からお金儲けの道に踏み出すことになる。否応無しにだ。一方、独立せずに資金提供を受けている企業の第一日目は、お金を使う事から始まる。社員を雇い、機材を購入し、設備投資を行うといった支出だ。お金儲けはまだ重要になっていない。彼らはお金を生みだす練習ではなくお金を使う練習をするのだ。

独立するということは、諸君に起業家たるにふさわしいマインドセット(訳注: 考え方・姿勢)を与えてくれる。お金は使うものではなく産み出すものだという考え方だ。これこそが正しい練習とよぶにふさわしい。正しい練習法であり、正しい習慣であり、諸君のビジネス脳に正しい刷り込みを行う事になる。お金を使う練習よりもお金を産み出す練習を積む事が、起業家としての君に金回りの良さをもたらしてくれる。独立は諸君の出足を良くしてくれるものなのだ。

だから諸君が、今まさにビジネスに着手しようとしていたり、すでに着手していたり、資金を得ようとしていたり、既に資金提供を受け更なる増資を狙っていたりするのであれば、他に手が無いかどうか良く考えることだ。資金を募ったり商品価格の引き上げをするのは止めておけ。何も考えずに売りまくることだ。1に練習2に練習。若いうちの苦労は買ってでもせよってやつだ。近視眼的に見ればこんなやり方には嫌気がさすだろうが、長い目で見ればこのやり方こそが諸君を立派な商売人にしてくれる。

2009年10月27日火曜日

[メモ] 電子書籍リーダーが花盛り

[Technologizer] The E-Reader Explosion: A Cheat Sheet

Daring Fireball 経由で知った記事なのだが、この件については John Gruber が言及している通り、製品カテゴリそのものの寿命について不透明な部分が多い。私もこういった電子書籍リーダーは1980年代の日本におけるワープロ専用機的な位置付けにとどまると考える。つまりは昔ながらの「専用機器 vs. 汎用機器」の図式であり、iPhone や Android といった汎用機器が全て飲み込んでしまうだろうというありがちな予想だ。

ただ、電子書籍リーダーに関してはあちらとこちらの温度差のようなものを確かに感じる。ASCIIコード圏ではもともとタイプライターという清書機器があったので、早々に PC 上のワードプロセッサソフトとへ移行したが、日本ではそういった機器がなかったのでワープロ専用機が長いこと幅を利かせていた。これと似た様な事があちらでは電子書籍リーダーというジャンルで起こっているようで、どうやらあちらでは電子書籍リーダーが、日本におけるワープロ専用機のようにある程度は生き長らえるのではなかろうか。

あちらでは汎用機器の解像度やmobilityが向上するのを待つくらいなら既に実用レベルに達している専用機器を買うという選択肢を採った。日本では、コンテンツの充実度や文字表示に必要な解像度の違いという点で現段階の電子書籍リーダーはあまり魅力的にうつらないだけで、実用レベルになればこのジャンルも熱くなる、というのが一般的見解だろう。

だが私は、そういったスペック上の問題が解決されたとしても、日本においては電子書籍リーダーというジャンルは寒い状況が続くのではないかと考える。この温度差を産む原因として「本を読む」という行為そのものについて東洋と西洋には決定的な違いがあり、その根っこにはおそらく「意味」というものに対する姿勢の違いがあると見ているからだ。

西洋の「意味こそ重要」という一神教的(つまり自然科学的)文化に対し、東洋(特に近世より前の日本)では「意味なんて飾りです、偉い人にはそれがわからんのです」とばかりに、意味からはみ出し滲み出た響や姿や佇まい、そして意味の背後に隠れているものを重んじた。いわゆるセマンティックWEBが、東洋では使い物にならないお粗末なレベルの代物でしかない理由はここにある。多分、チューリングマシンでは駄目なのだろう。抽象化により削ぎ落とされる部分にこそ日本語の旨味があるからだ。

もちろん西洋が一枚岩であるわけなどない。ダンセイニやイェイツあたりを嚆矢と言って良いと思うのだが、カトリック的合理主義以前(というかグレコローマン以前?)の「古い」Celtic な世界が「新しい」科学として取り込まれる動きがある。おそらくこれによりチューリングマシンやノイマンアーキテクチャを越えるコンピュータサイエンスの成果が産まれてくるのだろう。西洋と東洋は、その時点でようやく出会えるのかもしれない。

白洲正子先生が『私の百人一首』新潮選書版あとがきで「言葉には言魂(ことたま)というものがあり、意味だけわかっても、それこそ何の意味も無い」とおっしゃっていたことを思い出す。もしかすると semantics をいったん捨ててかからないことには日本におけるコンピューティングの未来は開けないのではないか。

2009年10月23日金曜日

[メモ][Microsoft] 何この陽気なデブ


バルマーの躾が行き届いているようで、いかにも頭悪そうな体育会系ノリがもうたまりません。育ちの良さってのはパクれないんだなぁということがよくわかります。

2009年10月22日木曜日

[メモ][html5] だからこっち見んなっての

[ajaxian] Microsoft to help move Canvas 2D API out of HTML5 spec?

Dion 曰く「ぐだぐだ言う前におめーのそのポンコツをなんとかせぇよ」とのことで、至極もっともであります。

まぁ MS も苦しいんでしょうな、いろいろと。

2009年10月20日火曜日

[37signals] 単に既存マーケットに手を伸ばすのではなく、新しいマーケットを創出しよう

(原文: Don’t just try to steal a share of the existing market, create a new one)

君の商品に類似したものをこれまで利用した事が無い人々をターゲットにしよう(これは Clayton Christensen が言うところの「今はまだ消費が発生していないところへの参入」というやつだ)。こういった人々はかかえている問題について解決方法がすでに存在しているという事を知らないか、もしくは解決方法を知っていて手を出してみたがひどく高価であったり取り扱いが面倒だったという経験がある。こういった人々は機能の豊富さ等について口うるさく言ったりはしない。きちんと動きさえすればシンプルなものでかまわないのだ。

これはつまり、顧客の初歩的なニーズをきちんと満たすものを作ればマーケットにおいて勝利出来るという事を意味する。高機能/高価格を求める顧客より単純/低価格を求める顧客の方が常に多い。(見本市においては単純/低価格なものは報道ウケがあまり良くないかもしれないが、単純/低価格なものこそ大多数の人々が現実に求めているものなのだ)

3つ例を挙げよう

1. Nintendo は他のテレビゲーム機を利用した事が無い人を狙った。Xbox 360 と SONY の先行機種が共にゲーム経験豊富な玄人ゲーマーに食指を伸ばしたのに対し、Nintendo は初心者を狙った。Wii のコントローラーは3歳の子供でも遊べるくらいにテレビゲームをシンプルなものにした。Nintendo はこれにより繁栄を手にしたのである。

2. Jitterbug は高齢者のために、そして従来の携帯電話は複雑すぎるという点に気付いた人のために作られた携帯電話である。高機能携帯がてんこもりの機能とアプリを顧客に提供する一方で、 Jitterbug はシンプルな携帯を作り続け、顧客の年齢統計動向に注目した。大きなスクリーンとキー、昔ながらの電話のような発信音、音の大きいスピーカー、補聴器とも共用可能、利用に当たって面倒な契約は不要、それがJitterbugだ。

3. アメリカでは半数近い大学生がコミュニティカレッジ訳注: アメリカにおける短大や専門学校)にも通っている。何故だろう? 学費が手頃である事、入学試験が厳しくない事、通信課程で学位が取得出来る事、看護士・消防士・警察官・救急医療隊員を目指すための学位取得など労働需要に焦点を当てた課程がある事などが理由に挙げられる。これはつまりコミュニティカレッジというものが、もしコミュニティカレッジというものがなければ教室で教育課程を終えるハメになっていたような人々をも生徒として取り込む事が可能なのだという事に他ならない。

もし諸君が既存のものよりシンプルで手頃な代替品を作り出せば、新たな顧客を囲い込む事が出来るだろう。だれかのパイに手を伸ばす必要など無い。新しいパイを焼けば良いのだ。

関連エントリHow Obama targets nonconsumption [SvN]

2009年10月19日月曜日

[メモ] 二次著作を認めない文化は滅びるのみ

近年では東方を、昔日にあっては本歌取を見れば明白なのだが、パロディアとミメーシスの発現たる二次著作を認めずして文化の興隆も交流もありえないということは、もはや否定のしようがない事実になっている。

「難しいのは単なるコピペ改変との線引きだ」といったような知ったかをふりかざした時期が私にもありましたが、それすらもまた必要なのだと思い知るに至った次第。ミームマシンという概念はこの辺りの状況を実に上手くモデリングしてくれる。

2009年10月17日土曜日

[メモ] なぜ私は jQuery が好きになったのだろう?

「prototype.js はクラスベース OOP に色目を使っているから」というのもあるんだが、「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ」でふと思った。どうやら jQuery オブジェクトの「数珠つなぎ」指向が心地よいからというのが理由の一つにありそうだ。

var reason = 田(秋).庵(仮廬).苫(粗);

といったところか。意味論的には変なのでここはひとつ is-a/has-a 視点でやまとうたを OOA してみる必要が有るな等と思ほゆるもいといみじ。

2009年10月1日木曜日

[メモ] Παρνασσός

2010年1月全国ロードショー 映画『Dr.パルナサスの鏡』公式サイト:

タイトルを見てドビュッシーの『グラドゥス・アド・パルナッスム博士』を思い出しましたわ。

予告編を見る限り、じじぃ萌えあり microphilia ありのギリアムらしさに加え、美女とイケメンもてんこ盛り。幻想三部作の流れだから安心して見れそうだというのもあるけど、哲学と興行の折り合いについてギリアムなりに結論を出した一本なのかなという第一印象もあり、そういう意味でも期待大。

それにしても何故『パルナサス』? 『パルナッソス』の方が人口に膾炙していると思うんだが。邦題を付けた担当者が、エーゲ文明から連綿と続くパルナッソス山の神話を知らんとしたら笑えるけどね。