2009年5月31日日曜日

[メモ] Google Wave

Google Wave Preview:
Google Code Blog: Hello World, Meet Google Wave:

私がGoogle Waveに筋の良さを感じる理由は、大見出しであるリアルタイムコラボレーションという題目の持つ魅力ももちろんだが、それ以上に
  • これぞ私が今まさに欲しいテクノロジだから
  • Twitter?あんな中途半端なもん買収してどうすんだよ、one of Google Wave clientsとして扱うだけで充分じゃんwという技術者としての矜持がにじみ出ているから
というのがあり、中でも最も魅かれるのは
  • ボットをわらわら動かしてコラボレートに参加させる
という視点を最初から打ち出した点にある。

n人(n > 1)のコラボレーションというモデリングは実に当たり前だが、これがn==1でも有効であるということを明確にしているわけだ。

実際、現在のアプリケーションでは入力と出力が別マシン・別プロセス・別タブであるというのが普通になっているので、入力側と出力側がオブジェクトをIPベースでリアルタイムに共有するAPIの出現は実にうれしい。アプリケーション間通信の近未来形を示したという意味では、これでやっとIPベース分散オブジェクトの最終進化形が見えてきたと言って良いのかもしれない。

こういった有望なパラダイムが出てきたことで、コラボレーションツールという意味でかぶる部分が多いCMS界隈などは特に刺激を受け、Google Waveを取り込んだり改良したりすることで更なる進化を遂げるのだろう。

RPCとか疎結合とかがチンプンカンプンな上司にレポートする際には「オプション4つ付けて、ヒャッホー!俺様無敵!な感じを個人でも味わえるようになるんですわ」とでも言っておけば良いかもしれない。まぁ相手も強化するわけで、パターン覚えないとサクっと死ぬというのは共通なんだけど、不都合な真実は隠しておこうw

いずれにせよこれで「GoogleがTwitterを買収」とかぬかしていた「いま目の前にあるニンジンしか追いかけられないITパパラッチ」も口を閉ざすことだろう。めでたしめでたし。

それにしても今回改めて思い知らされたのは、江島健太郎氏のテクノロジ目利きとしての腕の良さだ。

Lingrを単なるリアルタイムコミュニケーションツールとしてしか捉えられなかった事に関する責は運営側にもユーザ側にもあるわけで、単に機が熟していなかったというだけのことだ。特に想像力(COMET応用性の発見)欠如という意味では、やはりTwitterのような前座が必要だったのだろう。

今回Google Waveの発表を目にして脊髄反射的に「うはwwwwエジケン涙目wwww」と思ってしまったのだが肚の底では、いち早くCOMETに賭けた氏の見識の確かさと度胸に感服していた。

氏は今回の発表を聞きアブサンで苦い祝杯をあげた、というストーリーをふと思いついた皐月の終わり。

2009年5月30日土曜日

2009年5月21日木曜日

[メモ] デッカードのセダン?

Citroën Karin





trapezoidal(台形の)という表現がぴったりな、シトロエンが1980年のパリサロンにて展示専用車として公開したこの一台。どう見てもデッカードのセダンだ。ミード御大はここからインスピレーションを得たのだろうか?

2009年5月20日水曜日

[メモ] やればできる子

NHK、創作用映像素材の無料公開サイト開設へ--10月にスタート

期待大。つまんねー上に著作権処理という複雑で虚しい作業が重くのしかかるコンテンツ(韓流とかなw)は後回しでええやんという英断が窺える。

我らが日本放送協会様におかれましてはこの流れを推進し、ようつべやニコ動のような玉石混淆のカオス(これはこれで好きだけどね)ではなく、Vimeo のような、ちんまりとした佇いを残しつつも製作者の思いはダイレクトに伝わってくるコンテンツが集積されたポータルになってほしいと切に望むものであります。

[メモ] 裁判員制度に反対する

出廷義務に関する過料ひとつ取っても「それって庸? 日本はいつから律令制に戻ったの?」と呆れるしか無いしろもの。

問題点しか見当たらないし、公共心の涵養がこんな「司法の職務放棄」としか言い様のない制度で実現されると考えるのであれば頭悪過ぎ。だいいち「日常感覚や常識といったものを裁判に反映する」ってのは罪刑法定主義の、ひいては法治主義の否定にほかならないだろ。

あ、そうか。これって「これまで、立法権は議会制民主主義を通じて国民が行使するというシナリオのもと法治国家指向で運営して参りましたが、今後徐々に人治国家に移行しまっせ」という方針転換の表明なわけか。

なるほどね。でも、うはw、またファッショかよw

まぁ選出されたら、運が悪かったと思って素直に過料を支払い、出廷を拒否させてもらいますわ。


追記:
「裁判員保険というビジネスが成立するかもしれん。まさかの時に備えるという意味では交通事故と同じだからね」と思ってググってみたら既に同様の事を提唱している方々がけっこうおられる。日本もまだまだ捨てたもんじゃない。

2009年5月19日火曜日

[メモ] DoCoMoオワタ

[CNET Japan] NTTドコモ夏モデルはJavaScript対応、ヱヴァケータイなど18機種
[CNET Japan] ついにAndroidケータイが日本上陸--写真で見るドコモの最新PRO/SMARTシリーズ
[CNET Japan] 薄さ9.9mmの高性能スマートフォン、写真で見る「T-01A」--NTTドコモ2009夏モデル
[CNET Japan] 映画にも登場、限定3万台の販売--写真で見るヱヴァケータイ

「なにを今更、とっくに終わっとるがな」という周囲の声もあった。それでも「禿電話よりはマシじゃ」と、心のどこかで信じていた。

だが今度ばかりは愛想が尽きた。

まさに大企業病。この御時世に於いて尚、幕の内弁当的「あれもこれも」戦略を採るとは正気の沙汰とは思えない。

Android/Windows Mobileに関しても相変わらず「一応最大キャリアとしてはやっておかないとね」的やる気の無さが爆発してるし、小手先のフィーチャーアップにしてもキャラクタ商品化にしても、もううんざりだ。

博打を打てない経営陣などもう要らん。

2009年5月17日日曜日

[メモ] 反省(したふり)

空気読まずにそもそも論をぶちかました私が悪うございました

(でも後悔はしてねぇよw)

2009年5月16日土曜日

[メモ] Daisy, Daisy, give me your answer do

WolframAlpha のオーバーロード通知画面











良い趣味してるなあ。開発者の愛が感じられますよ。

[メモ] 分割し得ぬものを分割するの愚

客観的主観主義もしくは主観的客観主義という表現について形容矛盾だとしてしまった時点でもう終わってるんだよ。

自分という他人もしくは他人という自分について思い至らない限り、個人も社会も、主観も客観も、矜持も共感も生じ得ないのに。

多分、自他の区別というものについてその半面しか評価していないからこういったことになるんだろう。

2009年5月15日金曜日

[メモ] 血塗れの神話

創造神話ならぬ「創造性神話」とでも言うべきものが存在するのだが、こいつと「生産性神話」はまるで双子の兄弟のように良く似ている。

「子供の創造性」とか「生産性の向上」といったとっつきやすい美辞麗句に騙されて、創造や生産といった行為が本来背負っている業 (karma) には目が行かなくなっているようだ。

創造=生産=善という一面的な捉え方は、創造や生産に携わったことのない、創造や生産がある種の悲惨の上にしか成立し得ないということを知らない脳天気によく見られる。

そして真の創造者・生産者は、そういった脳天気どもの思いをよそに、粛々と創造・生産の持つ業をその身に引き受け、血を吐きながら、その血を絵具にし、表現する=生きる。

2009年5月10日日曜日

[メモ] ロジックとは虚構である

脳は考えてなどいない。ましてや論理的思考などしていない。

脳はパターンマッチングしているだけだ。

走光性などにみられるような、入力パターンに応じた出力(行動)パターンの最適化、すなわち個体の生存に関して状況に応じた最適化を行い得たものが生き残るというシステムを延々と運用してきたのが我々、生命体だ。

ロジックとは膨大な数のパターンマッチング処理の重なり合いが垣間見せる蜃気楼に付けられた名前である、といった程度の認識で充分かと思われる。

おそらく、我々が意識と呼ぶものも同類であろう。

2009年5月8日金曜日

[メモ] 『BLADE RUNNER』 と『ヨコハマ買い出し紀行』

ポジティブな『ブレードランナー』として『ヨコハマ買い出し紀行』を読む、または逆に、ネガティブな『ヨコハマ買い出し紀行』として『ブレードランナー』を観る、というのが私の基本姿勢になっている。

一般に、かたやディストピアこなたユートピアという分類になっているようで、確かに、雷鳴轟き酸性雨のふりしきる2019年のロサンゼルスがディストピアを、自然がその本来の力を取り戻したことを示すムサシノの並木道がユートピアを、それぞれ視覚的に上手く描写しているというのは理解出来る。

しかし、そこに留まるのは皮相的に過ぎるのではないかと思うのだ。

私は、デッカードがレプリカントであることを明確に示したディレクターズ・カットでようやく、この物語が「闇黒のユートピア」とでも言うべきテーマの上に成立しているという事を確信した。

ガフの折ったユニコーンが「おまえは乙女に心を許しちまったユニコーンだ」という意味から「おまえはユニコーンの夢を見る」という意味に変わった事で、デッカードが蜘蛛の記憶を持ち出してレイチェルに彼女自身がレプリカントである事を確信させたのと同様のことが起こった。これによりリドリー・スコットは(というかハンプトン・ファンチャーは)、ディックが人間とレプリカントの関係を描くことで示した「人間とは何か」というテーマを、レプリカントとレプリカントの関係という形に翻案する事によって深化させたと言える。

リドリー・スコットの意図は、エンディングを陽光の下を車で飛ばす二人ではなく、エレベータの暗がりに消えていく二人に置き換えた点にも見て取れる。二人はまるで闇黒の未来へと乗り出すアダムとイブだ。楽園追放こそが人を人たらしめたのと同様に神の子ならぬ人の子たるレプリカントをレプリカントたらしめるという主張を明確にすることで、この物語はレプリカント版の創世記であるという事を示している。

一方『ヨコハマ買い出し紀行』は「陽光のディストピア」だと言える。

地球上にほんの一瞬だけ繁栄した種が迎えた黄昏と、その種が自らの姿に似せて作ったアルファ型ロボットをとりまく世界を描いたこの物語を単なる「ゆるい」ユートピア論として読むのは、ちょっともったいないと私は思っている。

アルファ型にとってのユートピアは即ち人間にとってのディストピアであるという点について意識が及ばないと「わたしたち、人の子なんですよ(10,p86)」というココネさんの独白の持つ重みを知る事は不可能だろう。『ヨコハマ買い出し紀行』はホーガンも真っ青なハードSFであり文明論なのだ。

というわけで私にとってこの2つの作品は、同じテーマのもとでそれぞれネガ・ポジというカタチで描き出されたものなのだ。


余談:

人はありのままの世界を見ているのではなく自分の見たいように見ているのだと申しますが、本当にそうだなと思う。

私もこの記事を見て「ターポンだ!すげー!」と思ったり、アルファさんとココネさんが互いに知っているはずの無い歌を歌うエピソード(3,p19)を読んで「これこそ生成文法」と妙に納得したことがあったりするんでね。

でもいいじゃないすか。楽しいし。

2009年5月6日水曜日

[37signals] プランというものは歩みを進めてみて始めてわかるものだ

(原文: The only plan is to learn as you go)

プランという言葉を現実に即した呼び方に改めようよ。「あてずっぽう」とね。占い師でもないかぎり、ビジネスの長期予測なんて夢物語にすぎないんだから。市場の情勢・競合他社・顧客・経済状況・等々、あまりにも多くて把握しきれないほどの数の要因が存在するんだしね。プランを書くなんてのは、実際にはコントロール出来ないものをあたかもコントロール出来そうな気分にさせるためのものだ。

実際、ビジネスプラン・財政プラン・戦略プランという呼び方についても同様に「あてずっぽう」に変えた方がいいかもしれない。そうすれば多分、こういった絵空事に過度の重きを置く事をやめるようになるだろう。

ペンシルバニア大ウォートンスクールでイノベーション・アントレプレナーシップ部門の教授を務めるIan MacMillanと、コロンビア・ビジネススクールで教授を務めるRita Gunther McGrathは「プランというものは歩みを進めてみて始めてわかるものだ」と確信している。彼らはこう述べる 1) 紋切り型のアプローチやプランというものは新しい分野に取り組もうとする際には役に立たない。2) 大概の企業は虫の良い将来予想によってトラブルに引きずり込まれる。3)企業が回避するべきものは失敗ではなく「高く付く失敗」である。
こんな例がある: プロジェクトの為に資金調達が必要だとする。詳細に関する補足やスプレッドシートの入った100枚のスライドをパワポでまとめ上げ、資金を持ってる人のところならばどこにでも出向いてこの大物をぶつけてみる。相手は言う「うん。いいよ」

プロジェクトを開始し2・3ヶ月も経つと、市場の情勢や要求定義が予想と異なっており、製品をいじり直す必要があることに気付く。今や君には出資者の期待に応えるという大いなる責務がのしかかっている。そういうわけで、まるで型にはまったように失敗する企業によく見られるジレンマの第一は、この世は不確実性の塊であるにもかかわらず、自分は正しいと思い込んでしまう点にある。この考え方が諸君を逆効果しかもたらさないような行動へと駆り立てるのだ。
銘記すべき素晴らしいやり方だ: 不確実性の塊であるこの世で、自分は正しいなどと勝手に思うのは止めろ。立てるべきプランは、その場をしのぐためのプランだけでいい。


訳者コメント:
いつも思うんだが「設計しないという設計手法がある」ことを理解している人は少ない。

アジャイルやiterativeな開発手法がこれだけ普及した(ように見える)わりには、ウォーターフォールにせよボトムアップにせよ「まずアーキテクチャをしっかりしなきゃ」といったような前提というか先入観が、まるでしがらみのようにチームの足を引っ張っている。

この先入観の根にあるのは、近年殊に多く見られるようになった「過剰コンプライアンス」の根にあるものと同様、「きちんとしなさい」がとてつもなく肥大化したあの実体の見えない怪物なのだろう。

「きちんとしなさい」を「合理主義」とか「一神教」とおきかえてもいいわけだが。

2009年5月2日土曜日

[37signals] ミュージシャン/発明家は、痒いところに手が届くようなものを自分で作る

(原文: Musician/inventors who scratched their own itch)

Vic Firth 氏はボストン交響楽団でティンパニを叩いていた時、もっといいドラムスティックを作ろうと思い立った。店で売られているスティックは仕事で使うには物足りないので、家の地下室でスティックの製作を始めた。そんなある日、彼は床におびただしい数のスティックをぶちまけてしまった際に、スティックがみんな違う音高を発するのを耳にした。彼がスティックの水分含有度・重量・密度・音高を考慮して、ぴったり同じものをペアにするようにし始めたのはその時からだった。その結果、彼の製品のタグには「完璧な組み合わせ」という謳い文句が記されるようになった。現在は、一日に85,000本のスティックを売り、市場シェアの62%を占めるに至った。

Les Paul 氏がソリッドボディのギターを発明した理由は、バーベキュー会場のお客さんに彼の演奏が聴こえなかったからだ
Goerke's Corner(訳注: ここと呼ばれる屋外で演ってたんだ。ワウケシャとミルウォーキーの間にあるんだが、ここはみんながバーベキューサンドイッチやルートビアといったものを食べるために車で立ち寄るというのが面白いとこでね。みんなに聴かせる為に演ってたんだが、車の後部座席に座っていたある男が私宛に一筆書いて給仕のねえちゃんに渡したんだよ。彼女が渡してくれた紙にはこう書いてあった「おまえは舞台に上がって何をしてるんだ...声とハーモニカは良く聴こえるけどギターの音量が足りねぇよ」。これを見て私は家に帰って考えたんだ、で、私なりのシンプルなやり方ではこういう結論になった「んー、じゃ、ギターについて研究させてくれや」。最初は布切れを詰めてみたんだが最終的に石膏にしたよ。
MUTEK(訳注: モントリオールで行われている音楽フェスティバル)の創設者・監督である Alain Mongeau 氏は Robert Henke 氏がどうやって Ableton Live を思い付いたかについてこう語る:
MONOLAKE(Robert Henke が techno producerとsound artist を務めている)のようなアーチストが良い例だ。例えば、彼は常に頭の中で思い描いている音楽をカタチにしたいと思ってたんだが、実現する手段が無かった。それで彼は本当にがんばってがんばってがんばりぬいて、遂にそういった音楽を制作する為のツールを作り、そのツールは Ableton Live というソフト、ここ10年間にわたり業界に途轍も無い衝撃を与えてきたことが誰の目にも明らかなソフトになったんだ。
以上挙げたミュージシャン達はそれぞれ問題を抱えていた。問題に注力し、解決した。そして彼らは同じような問題を抱えて解決策を求めていた多くの人々を救ったんだということも明らかだ。

我々は偉大なるアイディアを雷のごとき天啓と考えがちだ。しかし偉大なる発明の多くは「何かもどかしい感じ」とでも言うべきものがもたらしてくれるというのが本当のところだ。困ってる原因は何? どうすれば治る? 多くの人もまた解決策を求めているかもしれないよ。