2009年3月13日金曜日

[37signals] 「一夜にして成功」の陰には長年の積み重ねがある

(原文: Overnight success takes years)

傍から見た感じでは、企業や製品が何の前触れも無く一夜にして爆発的に大きくなることがしばしばあると世間では思われているようだ。現実はどうかと言えば、そんなに上手く行くことなんて滅多に無い。我々とは無縁の話だ。

5年前に Basecamp を始めた際、我々の RSS フィードを購読するのはせいぜい2000人程度だろうと考えていた。サイトを RSS リーダーによる自動巡回ではなく手動巡回で購読している人や、サイト開始時から購読していると思われる数千人を合わせても5000人以下といったところだ。

いまどきの基準から見ればこの数字は実にちっぽけだよね! おまけにその程度の数を獲得するのにすら数年掛かったわけだ。でもそれが現実だったし、後に大成功を収めた一連の製品群を立ち上げるのにはその程度の数字で充分だった。

確かに「一夜にして成功を収めた」と言うには物足りない数字だ。現状の地位を勝ち取るべく、我々は世間の注目というものは複利で雪だるま式に増えるものなのだということを当て込んでいた。それまでに築いたユーザ群を維持する一方、年毎に一定数の新規購読者や顧客が群れに加わった。

だから「そんなのお前だけだろ。棚ぼたで大成功が転がり込んで来ただけじゃねぇか」と言った感じで我々のアドバイスが無視されると、私は非常にいらいらしてしまう。その「大」成功は我々が改宗に改宗を重ねて(訳注: 「手を替え品を替え」といったところか?)築いたものだ。誰かがぽんとくれたものなんかじゃない。我々はいかにして現状を達成したかを包み隠さず公開しているし、我々の経験と発見が、みんなが我々と同様の達成を為す手助けになればと願っている。

だから「ウチはまだ顧客が少ないからそんな大成功なんてムリに決まってる」などと考えるのはやめることだ。今日が顧客獲得の最初の一歩だ。みんなが君の言う事に耳を傾けるようにするための最初の一歩だ。そうすれば数年もするうちに君も我々と同様「一夜にして成功を収める。そんなふうに考えていた時期が俺にもありました」と鼻で笑えるようになるだろう。

2009年3月11日水曜日

[37signals] 副産物を売ろう

(原文: Sell Your By-products)

ソフトウェア・Web 業界は、林業や石油業やとうもろこし・大豆農家から学ぶ事がたくさんある。彼らは廃棄物を活用することで多額の利益を上げているからだ。

林業ではおがくず・切れ端・細断された木材といった、かっては廃棄物とされていたものを販売して相当な利益をあげている。現在私達はこういった副産物を、暖炉にくべる合成薪・コンクリート・氷の強化材・マルチング材(訳注: 植物の根をおおって水分の蒸発をふせいだり温度を保つ園芸材料)・パーティクルボード(訳注: 木片と接着剤を加熱成形した板)・燃料・家畜やペットの寝床・冬道の滑り止め・除草剤・その他と言った形で目にしている。

超精製された石油はプラスチック・化粧品・食品・ゴム・合成繊維・殺虫剤・肥料・人工心臓弁・歯磨き粉・洗浄剤・ワックス... リストはまだまだ続くのだが、こういったものとして利用されている。

とうもろこしや大豆は精製・加工されて日常のあらゆるものに利用されている。昼までに君たちはおそらく、それと知らずに数ポンドのとうもろこしから作られたエネルギー資源を消費することになる。HFCS(ブドウ糖果糖液糖)・キサンタンガム(増粘多糖類)・デキストリン(賦形剤)・マルトデキストリン(甘味料、エネルギー補給サプリメント等で使用)・MSG(グルタミン酸ナトリウム)といった形で食品にこっそりと入っていたり、君の燃料タンクにバイオエタノールといった形で入っている。

副産物

上に挙げたものは全て副産物だ。林業はもともと建築資材として木を伐っていた。石油はもともと燃料として掘削されていた。とうもろこしと大豆はもともと食品として栽培されていた。だが今日これらの産業は、いかにして廃棄物を利用し、より多くの生産物を作り出すかについて理解するに至った。彼らは残り物に圧搾・加圧・精製・加熱・冷却・その他の処理を加えてお金に変えた。

我々は幸運だけど、それほどじゃない

ある意味、ソフトウェア業界に身を置くのは幸運なことだ。仕事は楽だしね。仕事と言えば、考え・キーボードを叩き・マウスを動かすくらいのものだ。適切な場所に描画し、文章を正しい順番で配置すれば製品の出来上がりだ。いやはや、普段やってる事そのままじゃん。

だがこの幸運が副産物を見つけ出すことを困難なものにしている。林業の会社には廃棄物という目に見えるものがあった。おがくずをほったらかしにするわけにはいかなかったのだ。一方我々の方はといえば、そういったものが見当たらない。あまつさえソフトウェア開発では副産物など生じないと考える始末だ。これは近視眼的だ。

何かを作ると他の何かが生じる

何かを作ると他の何かが生じる。世間で言うように、諸君は絶え間なくコミュニケーションを行い、絶え間なく他の何かを作り出しているのだ。物事に副産物は付き物だ。目ざとくて且つ創造性に富んだ起業家達はこういった副産物を発見し、そこに好機を見出す。

副産物としての Getting Real

Getting Real は副産物だ。書いている時はそんな事は思いもよらなかったんだがね。会社設立やソフトウェア作成を通じて得た経験というものは実務から生じた廃棄物だった。当初そういった廃棄物はブログへ掃き集められ、後に研修会のネタとなり、PDF化され、ペーパーバックになり、無料のオンライン書籍になった。この副産物は 37sinals に百万ドルの直接的利益をもたらし、更に百万ドル超の間接的利益をもたらした。

副産物としての Ruby on Rails

Ruby on Rails はもう一つの副産物だ。Basecamp 製作によりもたらされたのが Ruby on Rails だ。作業時には Ruby on Rails を作っているなんて言う意識は全くなかった。しかし David が店の床に転がっているそれに気付いた。我々はそれを見て・拾い上げ・手を加えた。この副産物が Web を変えた。

諸君の副産物は何だろう?

諸君のやっていることについて良く考えてみよう。やっていること全てについて詳細にだ。おそらく副産物を見出す機会はごろごろある。ぐはぁ、職場すら副産物になるじゃんか。作業を行う為に借りているわけだが、就業時間以降はどうしてる? イベント会場として貸すというのはどうだい? カリフォルニアのサンラファエルにある Mary 布団店がやっているように、スタンドアップコメディ(訳注: アメリカの一人漫才)のショー会場にすることを思い付くだろう。ショーを見た人が布団を買いにくるということもある。これはおいしい。

Wilco(訳注: オルタナカントリーのバンド)がやったように、日々の体験をフィルムに収めてレコードを作るというのもありだろう。彼らは何としてでもレコードを出す必要があった。レーベルとの問題も何とかやりくりしていた。バンド内部にも何かと問題があった。こういったことは彼らのレコード製作に伴ってもたらされたものだ。もし彼らがカメラを回していなかったら、貴重な体験を逃すことになっただろう。

現今の経済状況においては一層重要だ

困難な経済状況下において、副産物を売る事はより有利に働く。すでに作り出したものの中から新たな収益源を見つけ出すことが、キャッシュフローを増やしビジネスを上手く回し続ける助けとなる。我々が提案しているにもかかわらず諸君がいまだ製品への課金に踏み出せないでいるとしても、製品の副産物に課金するという道が残されている。どのようにして作ったのかを発表する研修会でも良し。顧客サポートを通じて学んだ教訓でも良し。製品に含まれるコードには、転用して収益化出来るものもあるだろう。

というわけで、諸君が何かを作る時には他の何かも同時に生じているのだという事を忘れないでほしい。それを見つけ出し・パッケージし・売るのだ。収益源は至る所にある。


訳者コメント:
「futon=布団」という英語の現状を知ったら、田山花袋もふっ飛んだことでしょう。

2009年3月10日火曜日

[37signals] 製品に課金するという信念を Web はどのような経緯を経て失うに至ったのか

(原文: How did the web lose faith in charging for stuff?)

製品に課金する事への疑念が世間においてあまりにも長いこと語られてきたせいか、現時点ではもはや無料が当たり前になってしまったようだ。無料が当然だなどという考え方はとっくの昔に効力を失っていると私は確信しているんだが、未だに逆な現状を前にして驚きを禁じ得ない。

「これからは無料サービスだ」「広告収入でやっていくんだ」「ベンチャーキャピタルの資金が我々に成功をもたらす」「買収されるのが夢」というミーム(訳注: 思想的因子・意伝子)に Web はすっかり感染してしまい、もっとシンプルなやり方で行こうという信念はほとんど失われてしまったようだ。

スタートアップスクールで話したとき以来、多くの起業家からアプローチを受けているが、彼らが口にするのはそういった話ばかりだ。彼らはニッチ市場を見出し、それをターゲットにした製品を作り、「なんてこった、思い切った手を打たんとな」と考えるに至り、課金を行うことを決心する。課金が作動し、顧客が請求書通りに支払い、会社が成長するのを目の当たりにして彼らはびっくりする。

このことは夢のように素晴らしい話であると同時に、人々にはなかなか受け入れられないものでもある。上に示した起業家の行動が明らかにしているものの中には、驚く要因など何も無いというのに。当然の結果なのにそう思われてはいない。その理由は、最初からきちんと利益を上げるようにしようという姿勢に何か不自然なものを感じてしまうという病がスタートアップ起業の文化に取り憑いているからだ。早いうちから収入をあげることが後の大成功の妨げになると思われているからだ。

こんな考え方は気が滅入るし間違っているのだが、私の見るところ今や状況は変わりつつある。サンフランシスコのスタートアップ企業が採った、昔ながらの一攫千金というやり方が通用した日々のことを思うと感慨深いものがある。こういったやり方は CDO(債務担保証券)やゼロダウン住宅ローンとともにトイレに流されることになるだろう。

その一方で我々を待つのは、製品に金を払うのは当然だとされる世界だ。Jason が「無料サービスに未来は無い」と大見出しを付けて話す必要など全く無い世界だ。Web においても大半の企業が顧客からダイレクトに収入を得るというシンプルな世界だ。

そんな日が来るのを楽しみにしている。

2009年3月7日土曜日

[メモ] やっとわかりましたよ先生

エンタープライズ機能なんてソーシャル機能のおまけ程度の扱いで充分なんだということにようやく気付いた。会社と社会というシンメトリーが会社の方に傾き過ぎたこの数世紀。不均衡は正されなければならぬ。

パーソナルとソーシャルの不均衡mona-。

2009年3月5日木曜日

[メモ] 外人と人外

小泉八雲と妖怪の間には、外人と人外というシンメトリーがある。「日本人にとっては自分も妖怪も異界の者なのだ」という自覚が彼に妖怪への親近感を抱かせたというのは想像に難くない。それが彼をして『怪談』に至る数々の著作、『影』『骨董』等にも顕著な日本における彼岸観・異界観に着目した一連の作品を書かせたのであろう。

彼について表現する際にしっくり来る言葉に outsider がある。foreigner だとちょっと弱いのだ。そして outsider という言葉がしっくり来る作家といえばラブクラフトである。

小泉八雲とラブクラフトを繋ぐものの一つに、ヴードゥーへの着目がある。小泉八雲はニューオーリンズに約10年程住んでいた。そこで物書きをしていたのだが、当時の記事にヴードゥーに関するものが存在する事が知られている。「最後のヴードゥー」ことドクター・ジョンの死に当たって書かれた追悼文(1885年)にも見られるように、彼はニューオーリンズにおいて黒人社会を通じてヴードゥーとの接触を持っていた。来日(1890年)前の約2年間は西インド諸島に滞在し民話収集等のフィールドワークを行っており、その成果は『クレオール物語』に見る事が出来る。

一方、ラブクラフトでヴードゥーといえば『クトゥルフの呼び声』であろう。ルグラース警部の話として綴られている、ニューオーリンズにおけるヴードゥー教徒のおぞましき集会は、かの「ふんぐるい・むぐるうなふ・くとぅるふ・るるいえ・うがふなぐる・ふたぐん」という詠唱で最高潮に達する。

アメリカ人にとってニューオーリンズは魔界都市として認識されている、というわけではあるまいが、そんな異界ニューオーリンズをこよなく愛した小泉八雲は outsider としての素養を十分に持っていたようだ。

小泉八雲とラブクラフトを繋ぐものをもうひとつあげるとすれば『浦島太郎』にみられるような『深き者』との関わりがある。『夏の日の夢』にみられる浦島太郎への着目は、クトゥルフとしての乙姫・ルルイエとしての竜宮城という図式を思い起こさせる。実に日本らしく萌え萌えに描写されている乙姫も、浦島太郎にとっては結局のところ破滅の神クトゥルフであったわけだ。異界に赴きそして帰還した者を待つのは破滅だけなのだろう。「常世=竜宮城=蓬萊山」という、日本における異界的モチーフにルルイエを重ねるのはあながち間違いではないと思われる。

最初の妻であるマティ(アリシア)・フォリーが黒人だったというのも異界へのあこがれを反映している。『クレオール物語』所収の『ドリー』には、恐らくマティその人かと思われるドリーについて「その大きな、黒い、きつい、じっと見つめる両眼」という描写がある。これはまさにインスマウス面の魅惑的表現と言えよう。

異界に魅かれた彼ら。その異界を日本に見出し、同じ異界の者として妖怪について書き綴った小泉八雲。此界に幻滅し、幻想としての異界を書き綴ったラブクラフト。ともにその心底には outsider の喜びと悲しみがある。

2009年3月4日水曜日

[メモ] 「百年に一度の大不況」だと実感が湧かない

ので

盆と正月が一緒に来たような大不況

と表現すればわかりやすいのではないかと思いましたよ。見た目も御目出度くて良いのではないでしょうか。