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2010年6月14日月曜日

[メモ] 終風先生いつもごちそうさまです

[finalventの日記] 読売新聞社説 新常用漢字 日本語を豊かに表現しよう : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

私の様な根性曲がりにとって、終風先生の「ふにゃふにゃな印象を与えつつも、実は背筋がぴしっとしている」という芸風は憧れなのであります。露伴を思わせるんですな。共通項は「家事が大好き」ですかね。

で、
UTF-8でも出ないか。まあ、そういう問題でもないが。
なんですが、「そういう問題」については「Unicodeに入っていない」ということで問題無いのですが「でもない」については、読み手の問題意識に応じてふにゃふにゃ、というか重層的に解釈する余地が残されています。

私は御覧の通りの根性曲がりなので
  1. 漢字制限なんてアホのすること
  2. 漢字はUnicodeで処理出来る、という考え自体が幻想
と解釈しました。

1.についてはもはや言うまでもないでしょう。戦後のどさくさに紛れてねじ込まれた「当用漢字表」「現代かなづかい」なる愚民化政策については、福田恆存『私の國語敎室』をはじめ、多方面でその弊害(この「害」にしても字形的には間違ってる。あやまれ、白川先生にあやまれ。まぁ、終風先生は白川先生を「と」だと言ってはりましたが)が述べられています。アホなデザイナーが作ったアーキテクチャのせいで、コード量がえらく増えてしまいました。文字コードの量も、それを処理するコードの量も。全く、こいつらのせいで、また休日出勤だぜ。

2.については、要は、我々が現在のコンピュータで日本語を使うというのは「トゥール・ダルジャンで、鴨料理をわさび醤油で食する」が如き暴挙なのだということなんですわ。コンピュータというものの背後にある、まさにゴチック建築のように堆く積上げられた「合理主義という名の神」への信仰告白(ちなみにRubyもこれですね)に目を向けようとする日本人は少ないです。その表面に紙を貼付けただけのハリボテを作り上げ、それを「日本のコンピュータ」と称する愚が現状には満ちあふれています。しょうがない、という側面はもちろんあります。現にこうやってUTF-8で書いているわけですし。

でもこれは、日本人(というか漢字を食べて来た民族一同)が、いつか自力で解決しなければならない問題なんですわ。道のりは遠く、玄月先生ですらツールについては全面的に既存のものに頼らざるを得ないという状況ではありますが、それでもなお我々は、コンピュータというもの、チューリングマシンというものを「和」の概念により分解・再構築するという使命を持っています。

なに、じっくりやりゃいいんですよ。我々の祖先は何百年もかけて漢字を食べ、消化し、日本語の血肉として来たじゃないですか。大丈夫です。森有礼とか表音主義者といった、足引っ張るバカは居ましたし、今もこれからも居るでしょうけど、こいつらは放置しときゃ自爆しますから、耳を貸さないようにすればOKです。

2009年7月20日月曜日

[メモ] 業即是業

訓読するなら「ギョウはすなはちこれゴウなり」で、意味的には「business とは karma そのもの」とすれば理解しやすいと思われる。「何らの罪も犯さずして生きる事など不可能」「生きるとは即ち、自らが罪業にまみれている事を悟りそれでもなお進むという瞬時ゝゝの決断を積分していくことに他ならない」といったところか。

『常用字解』によると「業」は象形で「楽器を並べて懸ける器」とある。この「業」に似た道具で土を搗き固める作業を行った事から「業」に作業・仕事の意味が生じたらしい。business の意が最初に生じたわけだが、では「業」から karma の意が演繹されたのはいつころなのだろう?

この疑問を持ったとき「日本っていったい何なんだろう」という感慨が同時に湧いた。なぜかというとこの疑問に関し「キリスト教には元々『原罪』というアイディアがあったし、仏教でも四大苦の初っ端は『生』だからね」といった借り物の概念を思索の取っ掛かりにしている自分に気付いたからだ。

もちろん契沖・宣長等を入り口に、借り物でない概念を古代に遡って求める事も出来る訳だが、その途中にはやはり和漢朗詠集や本地垂迹といった「ハイブリッド化」のキーワードが転がっている。さらに遡る事も出来るのだろうが、その先にあるものは日本固有なのかそれとも人類普遍なのか?

きりがない。今のところ私が確信を持って言えるのは「日本人として生きること即ちハイブリッド化作業を通じて生きるということにいつのまにかなっちゃった」という程度のことだ。

松岡先生はハイブリッド化などといったケチな了見でなく、広く『編集』という観点から編集的日本人とでもいうべき日本のメソドロジーを探求・紹介しておられます。私にとって果てしなく思える道を往く先生の後ろ姿が遥か遠くに見える。

2008年12月22日月曜日

[メモ] 「メディア」と「あいだ」

メディア(mediumのpl.)についてOnline Etymology Dictionary
  • mediaがmass media(1923年に広告用語として用いられ始める)から派生して新聞・ラジオ・テレビの意味として使われだしたのは1927年ということなので、今日的な意味合いでの「メディア」の歴史はまだ100年にも満たない。
  • intermediate agency(媒介・仲介)としてのmediumは1605年が初出。mediumにshermanの意味が付け加わるのは1853年。肉の焼き方としてのmediumの初出は1939年。
  • Happy medium(妥協点・折衷案)は、ホラチウスのaurea mediocritas = gold mean(黄金の中庸)から来ている
  • 語源をたどると、PIE(Proto-Indo-European Language: インド・ヨーロッパ祖語)における *medhyo- から、medhyah(サンスクリット語)、mesos(ギリシャ語)、medius(ラテン語)が派生しており、これらはmedialや接頭辞のmid-として残っている。音楽用語として日本人にも膾炙しているmezzo(イタリア語)も根はここにある。
  • 以上から見られるように、メディアにはもともと何かと何かの「あいだ」とそれをつなぐものとしての意味が根にある。
「あいだ」については常用字解にて「間」を参照
  • 「間」はもともと門と月の会意。内田百閒の閒(U+9592)に残っている。この月は日月の月ではなく「にくづき」すなわち祭肉であり、宗廟の門に祭肉をそなえる儀礼のことを指し、そこから「内外を隔てる」という本義が生じた。
  • 「間」には(1)内外を隔てる(2)あいだ、ま、すきま(3)しずか、やすらか、の義がある。
  • (3)はmeditation(瞑想)を連想させる。meditationはPIEにおける *med-(measure,limit,consider,advise)からの派生とのことで、音韻的にmidとmedとのつながりはありそうに感じるがどうなのだろう。つながっているとすれば「間」と同様の演繹過程がPIEでもあったと考える事が出来て面白い。

2008年12月6日土曜日

[一言居士] コンピュータと「空」

私が「コンピュータとは何か?」について定義するとしたら、松岡先生が言うところの「空(うつ、うつろ、うつろひ、うつつ)」の概念が一番しっくり来る。それ自体は銅鐸のように空っぽで虚しいハードウェアなのだが、ソフトウェアが「おとづれ」ることによって始めて息づき始めるという意味でだ。コンピュータは銅鐸のような呪具すなわち「工」の現在形なのだろう。

コンピュータにおける「おとづれ」のありようは、まさに文字通りのコーディング、すなわち結線(ムスビが発生している!)によるロジック構築に始まり、時を経てアセンブル・コンパイルへと進み、そのメディアも物理媒体によるインストールからダウンロードそしてクラウドに至っている。Microsoftはクラウド への取り組みに関しAzure(蒼天・天空)を発表したが、その中味と将来性は置くとして、その名前の意図するところは深遠にして示唆に富んだものになっているわけだ。深読みし過ぎかなw

「色即是空」にも見て取れるように「空」はコンピュータの定義というよりは、もともと人間の定義に用いられて来た。なぜコンピュータの定義にもなりえるのだろう? それは多分、コンピュータは(というより、おそらく人の作りしものはみな)人の子であるからなのだ。ココネさんはそれに気付いたし、アルファさんも「知ってるよ〜」と寝言で(これ重要)答えていた。

たぶん、この事に気がつかないと、人とコンピュータの関係はいつまでたっても改善されない。人とコンピュータの関係が主従関係からパートナーシップへと変わるのがいつのことか、私にはわからない。だが、確実に言えるのは「人間に奉仕するものとしてのコンピュータ」という人間中心の捉え方では限界があるという事だ。今後は(今後も?)「コンピュータに好かれる」術(すべ)を身につけた人間だけが、コンピュータといい関係になれるのだろう。

「コンピュータに好かれる」術とは、従来はプログラミング能力のことを意味してきたが、ソフトウェアの層が厚くなってきたこんにちでは、プログラミング能力に留まらず「コンピュータに好かれる」術が色々と存在する。表記ゆらぎの正規化や手書き認識における筆順の遵守などもそれにあたるだろう。配慮・思いやり・信頼関係というものは、人間とつきあう場合もコンピュータとつきあう場合も、同じくらい重要になってきたのだ。

付喪神はそんな「人とモノのつながり」を良きに付け悪しきに付け背景として持っているものが多い。巫術という観点では、たとえば豢竜氏は人と竜の相互信頼関係があって始めて成り立つ職掌である。符術もまたスクリプティングという観点から捉える事が出来よう。そういう意味で、やはりコンピュータもまた呪具なのである。「工」なのである。

なお、白川先生が常用字解に記すところでは、空は穴に声符の工を付けた形声字であり、この工は「虹(にじ・コウ)のような弓なりに曲がった形」を意味するとのことで、呪具の「工」そのものではない。工を声符に持つ虹は、虹のような形としての工となって空にまた現れてきたわけだ。そういう意味では「空」の持つ字義、すなわち「うつ、うつろ」まで遡らないと「コンピュータ=空」という私の論は成り立たないという事を付記しておく。