2008年12月16日火曜日

[一言居士] ご冗談でしょう、池田さん

ネタ元: [池田信夫 blog] ハンコ・元号・縦書きをやめよう
(私はヘタレなのでトラバはいたしません)

どう考えても釣りだとしか思えない。話の持って行き方から見ても、当たるを幸いに言い掛かりをつけているとしか考えられない。

確かにこれまでも2chやはてなに対する粘着ぶりから、氏の「坊主憎けりゃ」的スタンスは世に知られて来たし、それもまた氏の持つ味わいであると、私などは考えてきた。

本件に関しても、好意的に捉えるならば「たぶんタイトルが大雑把すぎるのだ」という見方もあるわけで、氏の言わんとするところは「公文書において」ハンコ・元号・縦書きをやめよう、というだけのことなのかもしれない。それならば同意出来る。

でももし本気でタイトル通りだとしたらかなり困った事だ。

縦書きについては、認知科学領域での議論にも見られるように、日本というシステムが長年育んできたリテラシーそのものに関わる問題を含んでいるし、そもそも「PCで見づらいから」というのは何の理由にもならない。いつまで現状のアーキテクチャにしがみついているつもりだ? 何故我々日本人の最大の資産である日本語を最大限に表現出来るアーキテクチャを作るという方向に思考が向かないのだ?

元号にしてもハンコにしても同様の問題が待ち構えている。「面倒だから」「意味が無いから」「過去の遺物だから」「邪魔だから」といった一見もっともらしい理由のもと、切り捨ててはならないものまで切り捨てた結果がどうなったか、知らない訳じゃなかろう。中共による簡体化促進・維新期の廃仏毀釈・戦後の漢字制限。枚挙にいとまがない。

過去とは捨てるべきものではなく、無かった事にするべきものでもない。粛々と保存し記憶するべきものだ。保存し記憶する事すら忘れてしまった文明の末路は不毛だ。ミューズ九女神の母はムネモシュネーであるということをお忘れか?

オッカムの剃刀は非常に便利だが、切り捨てられたものの屍累々たるありさまについても考慮しなきゃダメだろう。切り捨てるならば切り捨てるで構わないが、それを実行するのは代替品が十分に成熟してからだ。日本人はそういった成熟をじっくりと腰を据えて、それこそ数百年のオーダーでやってきたではないか。

まぁ、こんな事書くと「保守派」とか「旧守派」とか「文化をふりかざす輩」と呼ばれちゃう訳だが。

ということで、氏の卓見と玲瓏を愛するものの一人としては、今回のエントリから窺えるような氏の一側面はざっくり切り捨てられないものかと心底思った。「全肯定も全否定も大雑把過ぎ。別に完璧でなくたっていいじゃん」というのが持論の私ですら、今回ばかりはそう感じたのだ。

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