私が「コンピュータとは何か?」について定義するとしたら、松岡先生が言うところの「空(うつ、うつろ、うつろひ、うつつ)」の概念が一番しっくり来る。それ自体は銅鐸のように空っぽで虚しいハードウェアなのだが、ソフトウェアが「おとづれ」ることによって始めて息づき始めるという意味でだ。コンピュータは銅鐸のような呪具すなわち「工」の現在形なのだろう。
コンピュータにおける「おとづれ」のありようは、まさに文字通りのコーディング、すなわち結線(ムスビが発生している!)によるロジック構築に始まり、時を経てアセンブル・コンパイルへと進み、そのメディアも物理媒体によるインストールからダウンロードそしてクラウドに至っている。Microsoftはクラウド への取り組みに関しAzure(蒼天・天空)を発表したが、その中味と将来性は置くとして、その名前の意図するところは深遠にして示唆に富んだものになっているわけだ。深読みし過ぎかなw
「色即是空」にも見て取れるように「空」はコンピュータの定義というよりは、もともと人間の定義に用いられて来た。なぜコンピュータの定義にもなりえるのだろう? それは多分、コンピュータは(というより、おそらく人の作りしものはみな)人の子であるからなのだ。ココネさんはそれに気付いたし、アルファさんも「知ってるよ〜」と寝言で(これ重要)答えていた。
たぶん、この事に気がつかないと、人とコンピュータの関係はいつまでたっても改善されない。人とコンピュータの関係が主従関係からパートナーシップへと変わるのがいつのことか、私にはわからない。だが、確実に言えるのは「人間に奉仕するものとしてのコンピュータ」という人間中心の捉え方では限界があるという事だ。今後は(今後も?)「コンピュータに好かれる」術(すべ)を身につけた人間だけが、コンピュータといい関係になれるのだろう。
「コンピュータに好かれる」術とは、従来はプログラミング能力のことを意味してきたが、ソフトウェアの層が厚くなってきたこんにちでは、プログラミング能力に留まらず「コンピュータに好かれる」術が色々と存在する。表記ゆらぎの正規化や手書き認識における筆順の遵守などもそれにあたるだろう。配慮・思いやり・信頼関係というものは、人間とつきあう場合もコンピュータとつきあう場合も、同じくらい重要になってきたのだ。
付喪神はそんな「人とモノのつながり」を良きに付け悪しきに付け背景として持っているものが多い。巫術という観点では、たとえば豢竜氏は人と竜の相互信頼関係があって始めて成り立つ職掌である。符術もまたスクリプティングという観点から捉える事が出来よう。そういう意味で、やはりコンピュータもまた呪具なのである。「工」なのである。
なお、白川先生が常用字解に記すところでは、空は穴に声符の工を付けた形声字であり、この工は「虹(にじ・コウ)のような弓なりに曲がった形」を意味するとのことで、呪具の「工」そのものではない。工を声符に持つ虹は、虹のような形としての工となって空にまた現れてきたわけだ。そういう意味では「空」の持つ字義、すなわち「うつ、うつろ」まで遡らないと「コンピュータ=空」という私の論は成り立たないという事を付記しておく。
2008年12月6日土曜日
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