[新国立劇場HP] オペラトーク「ヴォツェック」の模様を掲載②
「おさなごのわれにきたるをとどむな」(マルコ 10:14)に関してググっているうちにこのページに突き当たったわけだが、一読してひっくり返った。何なの? このクリーゲンブルクっていうアホは?
1幕3場をピアノ伴奏でヴォツェックとマリーが歌うという演し物(「舞台裏の軍楽隊〜マリーとマルグレーテの口喧嘩」は省略して子守唄からかな?)があったようなのだが、この部分に関するクリーゲンブルクの主張が、どう考えても狂っているのだ。
アンドレアス・クリーゲンブルク氏(以下、クリーゲンブルク):はぁ? なにそれ? あんた本当に台本読んだ?
私にとってこの最初にヴォツェックとマリーが一緒に登場するシーンというのは、家族がどういう意味を持っているかということを表すシーンです。常に痛めつけられ貧困にあえぎ、そして仕事に追われるつらい立場にいるヴォツェックにとって、家族というのは唯一庇護を与えてくれる最後の逃げ場です。この最初のシーンは作品全体を通して唯一、ヴォツェックの人物像に多少落ち着いた雰囲気とか、リラックスした表情が見られるシーンです。それは取りも直さず彼が自分の妻と子供に愛情を抱いているということの表れです。
家に入るようマリーが言っても "Kann nit ! Muss in die Kasern.(駄目だ、点呼があるんだ)" と言った挙句、前場の黙示録的妄想を引きずったまま訳の分からないことを口走るヴォツェック。マリーはそんなヴォツェックに "Dein bub ...(あんたの子供だよ)" と子供の顔を見せて正気を取り戻させようとするが、ヴォツェックはその子供も目に入らない放心状態で "Jetzt muss ich fort.(もう行かなきゃ)" と足早に立ち去る。そんなヴォツェックを目にしたマリーは "Er schnappt noch über mit den Gedanken(考えすぎて気が狂ったんだわ)" と恐れ、挙句に "Wir arme Leut !(私たちは貧乏人なのよ!)" と叫ぶ。
1幕3場とはそんなシーンだ。それを「作品全体を通して唯一、ヴォツェックの人物像に多少落ち着いた雰囲気とか、リラックスした表情が見られるシーンです」ってアンタねw。
さすがに司会の長木 "セクハラ" 誠司センセイもおかしいと思ったようで
長木:と突っ込むのだがクリーゲンブルク大先生も負けじと返す
台本の中で、ヴォツェックは子供の顔を見ないで立ち去ってしまったりもしますが、これはどういうことなのでしょう。
クリーゲンブルク:うはw、牽強付会じゃなくて本気で言ってるとしたら本物のデムパですな、このヒト。
ヴォツェックは子供に対して十分なことをしてやれないという罪の意識を常に抱えています。そして子供の方もまた、そういうつらい立場に置かれた父の姿を見ているわけです。そうした複雑な関係の父と子であるがゆえに、罪の意識を持っているヴォツェックはまともに自分の子供の顔を見ることができないのです。それはお金を稼ぐために家族を置いて出かけなければならないヴォツェックの非常につらい心情を表しています。
「まぁ所詮は演出屋だし、しゃーないわな」で済ませて読み進めると、今度は指揮のヘンヒェンが変なことを言い出した
ハルトムート・ヘンヒェン氏(以下、ヘンヒェン):突っ込みどころはとりあえず2点。
(途中省略)
非常にエキサイティングな瞬間として、先ほどの場面(1幕3場)の中にハ長調の和音が登場する箇所があります。それがまさにヴォツェックがマリーのところに戻ってきて、お金を持ってきたと伝える箇所です。その瞬間だけ「これで世の中がうまくいくんだ」という思いを抱かせるようなシーンです。ヴォツェックにとって唯一大切なことは、なんとか家族を養いたいということだけです。先ほどクリーゲンブルクさんがおっしゃったように、常にそれがうまくいかないからヴォツェックは良心の呵責を感じている。自分はいい夫ではない、子供にとっても良い父親ではない、そういう罪の意識に苛まれている。でも彼が求めているのは自分の小さな家族のなかでの、本当にささやかな幸せです。それが、彼がお金を持って帰ってきたときに一瞬だけうまくいっているように見えるのです。ただこのハ長調の和音というのも、周りにあまりにも色々な音が入っているのでハ長調とはほとんど気づきません。
- クリーゲンブルクの珍妙な解釈を容認している
- そのハ長調って1幕3場じゃなくて2幕1場じゃね?
うそーん。そんなわけないやん。ということでスコア引っ張り出して確認しましたがな。2幕1場の小節番号で言えば116小節目、鳴ってるのは2番バイオリン(C)とビオラ(E,G)だけでっせ。他に何も鳴ってないやん。
変だなぁと思いながら読み進めたんだが、②ページ目に入ってから驚愕の事実が判明した
クリーゲンブルク:これかい!この水音でぶちこわしになっとるんかい! なんかもう「ざけんな!」としか言いようがありませんな。カーテンコールでは演出スタッフが出た途端にブーイングの嵐だったそうですが、そりゃそうでしょう。この舞台に音楽は存在しなかったというのがまるわかりですね。
舞台に張った水については、ふたつの意図があります。
ひとつは私たちが見るヴォツェックの世界が、非常に居心地の悪い、常に湿って汚れている、じめじめとした嫌な雰囲気であることを表しています。
もうひとつは音響的な面について、水を使うことで補足をしたいという意図です。ベルクの音楽は非常に構造を意識したもので複雑です。そこに水の撥ねる音、私たちが知っている自然に響く音を加えることにで、舞台の世界があまりにもかけ離れたものにな らないようにするという狙いがあります。誰もが知っている水の撥ねる音がすることによって、私たちの感情に近い、触れ合える世界にしたい。
しかし、ヘンヒェンも良くこんなノイズの混入を認めましたな。あれですか、大人の事情ってやつですか。あはは、それじゃしょうがないですね。なわけねェだろボケ!
ここまで読んでイヤな予感がしたのでこのページを見たら「大絶賛」とのことw。はぁ、私ゃもう、単なる商品なんかにゃ興味ありませんよ。勝手にやっててくださいな。音楽をコンビニ商品レベルにまで引きずり下ろしたお前らに、ミューズの囁きなんか聴こえるわけもないんだしな。
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