書の面白さは記号性と身体性が同居している点にある。formとflowが同居しているということであり、静と動が同居しているということであり、outputとinputが同居しているという事であり、結果と原因が同居しているということであり、instanceとclassが同居しているということであり、現在と過去が同居していると言うことである。
概念と記号をむすぶものとしての身体というものが顧みられなくなったこんにちにおいて、ある種の驚きとともに慨嘆せざるをえないのは、身体性が記号性を生み出すように記号性が身体性を生み出すと言う一種の呪術が書記文化の背景として「あった」という事だ。「ある」ではなく「あった」と言わざるを得ないのは、式や藁人形やルーン文字に代表される、記号性が身体性を生み出すと言う側面が、今となってはファンタジーの世界に追いやられてしまったからだ。この傾向は自然科学(すなわちキリスト教でもある)の跋扈とともに進み、ソシュールのシニフィエ/シニフィアンというあまりにも人間中心主義・観念主義に偏った言語学が拍車をかけた。チョムスキーの肩を持つわけではないが、ソシュールの半分はざっくり切り捨てたくなる。
そういった意味では、アラビックカリグラフィは実に面白い。かたや神の身体性、こなた人の身体性という違いがあるくらいで、特に表音性の取り込みが多い日本の書とは似た部分が多い。表音文字の系統がおしなべてタイポグラフィに収束した一方でアラビックカリグラフィは書記文化の身体性を未だ保ち続けているようだ。
神とか人とかが出てきたついでなのだが「神のRuby、人のPerl」というのはあながち間違いじゃないと思う。「一神のRuby、多神のPerl」「秩序のRuby、混沌のPerl」と言った方が正しいかもしれない。だからなのだろうか、私は「Rubyは日本人向け」だとは全然思えないのだ。やはり、作者がクリスチャンであるということがもたらす諸々の事柄は、言語設計の面でも色濃く反映されるようだ。ちなみに私は本地垂迹派なのだが、サーバサイドに関して言えば完全にPythonistaである。なるほど「パワフル・見た目重視・ハイブリッド(つまみ食い)」というアナロジーからは頷けるものがあるような気がする。良い意味でも悪い意味でも「中庸」なのだろう。
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