自然言語って実は全然「自然」でない。その理由も大体見当は付く。人間もしくは人為というものが、本質的に、不自然であることから逃れ得ないからだ。
自然においてあまりにも弱々しい人間達に与えられた不思議なハード・ソフト複合体。それが生成文法というものだったんだろう。
その林檎の代償として、人は不自然を大量生産し、貪り食う存在になった。生きたければ血まみれになれという自然の摂理は、臭い自然に蓋ということで隠蔽されたが、不自然から逃れ得ないのと同様に自然からも逃れ得ない以上、それは人間につきまとい、不自然という殻のなかで脈打っている。とあるクリエイターがこのコンセプトに原罪という名前を付けたのだが、フォロワーによって未だに書き散らされているシナリオにより、その公演は超ロングランとなっている。
老荘の始点(即ち終点)もまた、自然と不自然のせめぎあいを見つめるところにあった。その言説はなんという壮大にして豊饒なる、言語の無駄使いであったことか。言語の限界を示す為だけにあれだけの言語を尽くしたのだ。でも、それで良いのだろう。おそらくそれが人為の限界なのだから。「人知に即き、人知を捨てる」という円環の中で延々と暇潰しを続ける。我ら死すべき人の身に出来る事といえばそれだけなのだ。
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