2010年2月25日木曜日

[The Official Google Blog] イタリアでWebに対する深刻な脅威が発生している


2010年2月24日 01:57:00 AM

2006年の末、イタリアのトリノにある学校の生徒達が、ビデオを撮影してGoogle Videoに投稿したのだが、その内容は自閉症のクラスメートを彼らがいじめるというものだった。このビデオは非難されて然るべきものであり、我々はイタリア警察からの通報を受けてすぐに削除した。また我々は投稿した人物について地元警察と協力して身元を割り出し、その人物にはその後トリノ裁判所により10ヶ月の地域奉仕活動をするよう判決が下され、関わりのあった他のクラスメート達にも同様の処置がなされた。この珍しくも不愉快な一件にまきこまれた我々もこれで一件落着となるはずだった。

だがこの件についてはそうはいかなかった。ミラノのとある検察官が、Googleの従業員であるDavid Drummond, Arvind Desikan, Peter Fleischer, George Reyes(2008年に退社)の4名を起訴するという判断を下したのだ。彼らの罪状は名誉毀損とイタリアのプライバシー保護法への準拠を怠ったというものであった。ここではっきりさせておきたいのだが、彼等四人はこのビデオには何の関わりも持っていない。ビデオの中に出てくるわけでもなく、それを撮ったわけでもなく、アップロードしたわけでもなく、視聴したわけでもない。彼等四人はそのビデオに関わった人物を全然知らなかったし、そのビデオが削除されるまではその存在すら知らなかったのだ。

にもかかわらず、今日、ミラノ裁判所は4名の被告のうちDavid Drummond、Peter Fleischer、George Reyesの3名に対してプライバシー保護法不履行により有罪との判決を言い渡した。名誉毀損については4名とも無罪となった。この判決の主旨は、Google Videoのようなホスティングサービス基盤事業者の従業員はユーザがアップロードするコンテンツに関して刑事上の責務を負うと言うことにほかならない。我々はこのとんでもない判決について上訴することになるだろう。なぜなら裁判にかけられたGoogle従業員は問題のビデオには何ら関わりを持たないのだから。この長きにわたる係争期間中ずっと、彼等は賞賛に値する寛大さと不屈の精神を示してくれた。そんな彼等が法廷に立たされているなんてとんでもないことだ。

だが、今回の有罪判決により我々が非常に困っているのは、これと同じくらい重大な理由がもうひとつあるからなのだ。今回の判決はインターネットを築く土台となっている自由の原則そのものに対する攻撃に他ならないから、というのがそれである。プライバシーを保護するために然るべき手順を踏み、収録されている人々の同意を得ることが可能なのは撮影しアップロードした当人以外にありえない、というのが常識というものだ。EUでは、ひとたび違法なコンテンツの存在が通知された場合にはそれを削除する責務を負うという、明らかにホスティングサービス提供事業者を対象としたセーフハーバー条項が盛り込まれた草案が出されている。こういった通報とそれに基づく削除という制度は、個人のプライバシーを保護しつつ創造性の興隆と言論の自由の保証のために役立つものである、というのが我々の信念であり、まさに我々が意見として述べてきた通りのものである。もしこの原則が一蹴されてしまったら、BloggerやYouTubeのような、いや、それに限らず全てのソーシャルネットワークやコミュニティ掲示板は、アップロードされたコンテンツ(全てのテキスト・写真・ファイル・ビデオのことだ)について、それがどんなにちっぽけなものであったとしても全て審査する責務を負う事になるわけで、そうなれば我々がいま見聞きしているWebは存在し得なくなり、そのもたらしている経済的・社会的・政治的・技術的利益の多くが消失することになる。

これこそが自由の原則の重要なポイントなのであり、我社とその従業員が今回の判決に対して上訴する理由はそこにあるのだ。

2010年2月20日土曜日

[Google] Chrome Extension を作ってみて

やっぱWebKit系もやっとかんとね、ということでGoogle Chromeのdev版を入れてみたのですが、やはり気になるのは拡張機能の作りやすさ。ということで実際に作って確かめるためにこんなのを作ってみたわけです。

で、結論としては「Firefox(というかXUL)でExtensionを作っている人やGreasemonkeyでページをいじっている人にとってはストレスがたまるのでは?」という感じです。

content_scriptsの制限のきつさ
XMLHttpRequestもlocalStorageも直接には使えず、すべてbackground_pageを別途作製してsendRequestもしくはconnectしないと使えない、というのは異常に思えます。せっかくmanifest.jsonにpermissions設定があるのですからXMLHttpRequestくらいは直に使えるようにしてほしいところです。まぁcontent_scripts程度であればGreasemonkeyのChrome版でGM_系APIが実装されるまで待てということでいいんじゃないでしょうか。

コンテクストメニューへのアイテム追加などが出来ない

すくなくともドキュメントを見た範囲では出来ないようで、これはかなり痛い。UIをいじりたければWebKit APIを使えと言うことなのでしょうか。いずれにしてもXULのオーバーレイという一貫した設計思想とはかけ離れているようなので、また勉強し直しですな。

XUL慣れしているとかえってイライラする

これもGoogle側にしてみれば「おれにいわれてもなぁ」なので、仕方ないっちゃ仕方ないんですけどね。たとえば右クリックされた単語を拾うならばdocument.popupRangeParentとdocument.popupRangeOffsetを使うという定石がFirefoxでは使えるわけですが、Chromeではそんなプロパティは無いわけで、DOM Rangeで書き直しすることになりそうです。他にも「XULなら出来るのに」というのがどんどん出てくるんじゃないでしょうか。

まぁ「まだこなれていないだけだから気長にいこう」というのもアリなわけで、しばらくはちまちまと楽しませていただくことにします。

[Geek And Poke] 最初わからんかった

[Geek And Poke] The Geek Joke Of The Week

SQLインジェクションやXSSへの対策として、これは妥当な処置でしょうw

2010年2月19日金曜日

[App Store] やっとかよw

AppStoreに激震!!写真集系・グラビア系のiPhoneアプリがなくなった日、な夕刊。

Apple も腰が重すぎですな。つい先日もDHHがこんな記事を書いていたわけで、Appleとしてもそろそろ頃合といったところだったのでしょうか。

2010年2月17日水曜日

[メモ] どうせ牢獄なのだから居心地の良い牢獄にすべし

「肉体は魂の牢獄である」とはプラトンの弁であるが、これを引いて「肉体などどうでも良い」と捉えるのは早計である。

師ソクラテスの最後の言葉「魂の配慮」を胸中にイデアを目指したプラトンにとって、肉体はある種の必要悪であった。彼自身相当にマッチョであったので、自己嫌悪は相当のものであったろう。巨乳さんの自己嫌悪と似たところがあるかもしれない。自らの、必要以上に鍛え上げた肉体を牢獄と言い切った背景には、そんな思いがあった。

かと言って、彼自身政治家を目指していたことから窺えるように、公私と同様に心身もまた不可分であることをプラトンは痛感していた。アテナイに必要なのは心身と言うハード・ソフト両面にわたって充分なスペックを備えた市民であり、肉体蔑視の引き篭もりソフィストになれなどと言うわけにはいかなかったのだ。

だからプラトンは、魂へのリソース配分を最大化するためには肉体へのリソース配分を最小化する必要が有り、そのためにはインフラ最適化作業としての肉体の鍛錬が必要である、と主張した。つまり、師の言う「魂の配慮」を最大化するためには「肉体への配慮」が最小限で済むようにする必要があると解釈したのであり、魂に害を及ぼす肉体にはするなということであった。「戦士は戦士の要らない世界を実現するために戦う」と言うが「肉体は肉体を限りなく無に近付けるために自ら鍛錬を欲す」と言い換えても良いのだろう。

エピクロスを単なる快楽主義者と捉え、肉欲の最大化とその充足を目指す間抜けは、上に述べたのとは逆向きの早とちりをしている。エピクロスの目指したアタラクシアはミニマルな姿勢からしか生まれ得ない。つまりミニマルな欲求こそがマクシマルなアタラクシアをもたらすということだ。アタラクシアとは平静なる魂に他ならず、肉体は必要最低限のオマケ程度で良い、という主張こそがエピクロスの哲学であった。

2010年2月16日火曜日

[Microsoft] 死亡フラグ立ちまくり

[Microsoft] Windows Phone 7 Series

John Gruber は簡潔に "What a great product name. Not a mouthful at all." と述べるに留まっている。これほどわかりやすい皮肉って珍しいw

2010年2月15日月曜日

[Google] これはもうだめかもわからんね

[Google] Google Buzz

猫も杓子もソーシャルと叫び始めてからもうだいぶ経つわけで、周回遅れも甚だしいタイミングでの参入。ほんと、どこにでも居るんだなぁ、こういう「◯◯◯みたいのを作れ」とか、何の考えも無しに言うアホが。

せっかく WAVE という要素技術を磨き上げても、それをソーシャルと言う枠に矮小化したがる経営陣が居るようだ。エアボードをロケフリなんていうケチな枠に押し込めた某社を思い出す。

関連記事:[メモ] トンデモにつき注意
関連記事:[メモ] Google Wave

2010年2月11日木曜日

[Google] App Engine SDK 1.3.1

[Google App Engine Blog] App Engine SDK 1.3.1, Including Major Improvements to Datastore!

memcache で1000件越えに対応ということですか。key 等のユニークプロパティを使って取り尽くす方法に比べて、処理がすっきりしそうなのが嬉しい。とりあえずパフォーマンスがどのくらい向上するか見てみましょうかね。

追記: うはw「memcache をインポートして cursor 使う」とかせんでも fetch() だけで1000個以上取得出来るようになっとるやんけw。count() の戻り値や fetch() の offset に関しては、これまでと同様に制限されているというのがちょっと残念であり解せないところだけど、とりあえずこれで Paginator クラスがえらくすっきりした。あとは普通に memcache で結果を使い回せばパフォーマンス的にもOKってとこかね。

でも、これってメモリ的にはえらいことになってるはずなんで、ほんまにこれでええんか?

2010年2月9日火曜日

[37signals] App Store: クオリティ不在のクオリティ管理

(原文: The App Store: Quality control without the quality

私は iPhone が好きだし Apple も好きだ(はい、ここで国旗の襟章の画像と「オラはオラの国を愛してるだァ」のセリフを入れてね)。だが私は、彼らが App Store への入り口をガチガチに固めることで私のそんな気持ちを台無しにしてしまっていると確信している。もちろんこういった意見は昔からあった。開発者達はあちらこちらで App Store 認証プロセスの破綻について公然と非難の声をあげてきた。しかし世間は、彼らのそんな主張を我が身の事として感じることなど無いのだろう。

我々は Campfire の舞台脇にいくつかの新しいフィーチャーを準備した。準備完了してからもう10日以上経った。何故まだリリースしていないのかって? 理由は、iPhone アプリの Ember が我々の新しいフィーチャーをサポートするには正規表現に関するちょっとしたアップデートが必要だからなのだ。我々は心底 Ember が気に入ってるので、この新フィーチャーは上に述べた型通りのアップデートが済むまでは温存するのが分別と言うものだと判断した。未だにそれを待ち続けている。

というわけで、私は App Store の認証プロセスのやり方は全般的にダメダメだし、その見返りはあまりにも少ないと考えるに至った。こんなひどい認証プロセスに何の価値があるのか知りたくて議論に耳を傾けたところ、それはクオリティ管理のためなのだということだった。以下に列挙したのは議論の内容の内訳である:
  • アプリケーションがより安定したものになる: んなわけねぇだろ。私の場合、Echophone はいまだに使う度にクラッシュするぞ。iPhone はクラッシュバグに対する免疫があるというという世評にはふさわしくない話だ。で、どうすんだ? Objective-Cでネィティブアプリを書いてるんだろ。このクソアプリはいつもクラッシュしちまうんだぜ。App Store の店員に10分ほど調べてもらったけど屁のツッパリにもならんかった。
  • App Store にマルウェアが入り込まないようにする: 何の根拠もねぇよ。もし諸君が本気で悪を行わんと欲するならば、見た目の可愛らしいアプリの表面下にうまいこと悪意を隠し、時限爆弾式や遠隔操作式のトリガーを仕込むことだって出来るんだぜ。セキュリティに問題が無いかどうか調べるために App Store の店員がソースを虱潰しに調べるとでも? うはwおkwwww
  • App Store に良いアプリだけが並ぶようになる: ワロスw。App Store には14万本を越えるアプリがあるけど、大半は水準以下のシロモノだ。保証するw。何百もの屁のようなアプリが並んだ日にゃ、もうね、頼むでホンマ。
クオリティ向上に何ら寄与していない現状のクオリティ管理方式がもたらす不便に我々は金を注ぎ込んでいる。実際のところ、App Store のせいで多くのアプリのクオリティが低いものになってしまっている。開発者はおちおちバグ修正も出来ないし、修正版をひんぱんにリリースすることも出来なくなってしまっている。この現状は、CD でソフトを売っていたが故に頻繁にアップデートが出来なかった、あの面倒極まりなかった時代を思い起こさせる。

この現状を OS X や web と比較してみよう。両者ともに、はるかにオープンなプラットフォームであり、Mac においては、安定性・マルウェア・そしてクオリティにおいてすら、問題は極めて少ない。一般的に、市場と言うものはこういった物事を選別することに長けている。もし諸君がゴミアプリを作ったとしても、人々は買わないし他人に薦めもしない。そして OS X は、例の Windows とやらに比べてよりセキュアなプラットフォームとして品質を保っているので、マルウェアの心配もさほど無い。

今のやり方に替えて Apple が為すべきことは、明らかに問題があるアプリを根絶やしにすることだと私は思う。「貧弱なアプリ・遅いアプリ・まだ未完成のアプリ、全部レビューしまっせ」というポリシーより「もし問題を起こしやがったらしょっ引くぞ」というポリシーを持つべきなのだ。こうすることで、App Store スタッフの数はかなり少なくて済むようになるし、開発者は無意味な審査に煩わされることが無くなってウハウハだし、お客さんはアプリケーションの修正・改善が頻繁に行われるようになって嬉しく思うだろう。

問題のあるアプリを野放しにすることで得られるものなんて、思い上がりも甚だしい全能感以外に無いと思うんだが?


訳者コメント:
DHH はこのすぐ後の記事で App Store の現状を一目瞭然に示してくれています。こりゃいかんでしょw。私も去年の9月にこんなエントリを上げておりますので、我が意を得たりとほくほくしております。

“I love muh countray!”はタイポかなと思ったんですが、 FOX あたりの番組でこんな訛ったしゃべりをするキャラが居るんですかね。powah とか言ってるしw

2010年2月5日金曜日

[Google] 「非跳兎」って何なんだよw

いや、Google 日本語入力なんですけどね、「ひとびと」と入力すると「人々」じゃなく「非跳兎」が第一候補になるってのはどういうカラクリがあるんだろうと不思議に思ったんですわ。何度か「人々」で確定するうちに学習してくれたんで別に良いんですけどね。

ちなみに「非跳兎」でググッてもヒット数はゼロ。ということは、これってシステム的にはあり得ない変換なんですよね。

[37signals] 人々に「私ってアホなん?」と感じさせるコンピュータなんて作るべきじゃない

(原文: Computers shouldn't make people feel like idiots

iPad は力不足だと言う人が、まぁ想定の範囲内ではあるが、居るようだ。「キーボードは必須だよね」「バッテリーは取り外し可能でなきゃね」「マルチタスク可能でなきゃね」といった類の。

だが、こういった反動に対する興味深い反動が存在している(メタ反動ってやつか!)。この議論は、技術オタクが普段はネタにしないような不愉快極まる現実に関する率直な議論を、人々にもたらした。「一般の人はコンピュータの使い方なんて知らないよ」「バカとはとても言えないような人でもそうなんだぜ」「そういう人が何百万も居るんだよ」「立派な大人でもそうなんだ」「時代遅れにも程があるだろ」といった感じの。

(以下の引用における太字強調は私が行ったものである)

Fraser Speirs は "Future shock" でこう書いている:
ハイテクが大のオトナを子供扱いするという幼児化作用を目にするに付け、私はしばしば憂鬱になる。そこはハイテクが人々を支配下に置くために人々を子供時代に押し戻す世界であり、そこでは悪魔が、魔法や呪文やその土地の呪術師でしか対抗出来ない悪魔が、姿を現して人々を苦しめたり自由自在に姿を消すという中世さながらの世界だ‥‥

本当の生産活動とは、余白の設定をすることなんかじゃないし、プリンタドライバをインストールすることでもないし、ドキュメントをアップロードすることでもないし、パワポのスライドを仕上げることでもないし、ソフトのアップデートをしたり OS の再インストールをすることでもない。

本当の生産活動とは、子供に教えたり、患者を癒したり、家を売ったり、道路の損傷状況を記録したり、路傍で車を修理したり、テーブルに座った人々の注文をまとめたり、家を設計したり、パーティのまとめ役をするといったことなのだ。
Steven Frank はこう語っている
Apple ][ や C64 や Atari 400 のころからずっと、我々のやってきたことといえば機能の追加ばかりだった。機能を増やせば増やすほど売上が伸びた。何かを取り除くために歩みを止めてじっくり考えるなんてことは一度も無かった。

「コンピュータを使いこなせない奴なんて知的障害者に決まってる」という考え方には(たとえそれが皮肉で言っているのだとしても)もううんざりだ。

「使い易い」ユーザインタフェースを持ったアプリケーションを我々が知恵を絞ってでっちあげたとしても、その御大層なアプリを ZIP ファイルやディスクイメージファイルからどうやって取り出せば良いのかわからない人々が何百万人と存在する。ダウンロードフォルダは一体どこにあるんだ、というのもある。それ以前に、フォルダって何のこと?っていうのすらある。もし我々が、DOS や AppleSoft からこのかた連綿と続いてきたパソコン進化史とともに歩んできたのでなかったら、そんな人々と同様のひどい混乱に陥るだろう。賭けても良いぜ。
Rob Foster は "iPadとおばあちゃんと市場の流れの変化について" でこう述べている:
例のキーノートスピーチの日、お義母さんがうちに来て、開口一番「おまえ例のiPad ってのを見たかい? 私でも使えそうに見えたんだけどねぇ。どうかねぇ?」

私は完全に面食らった。彼女がコンピュータやテクノロジーの話をするなんてこれまで一度たりとも無かったからだ。コンピュータについては、どう見ても、我慢しながら使っているといったところだった。彼女のコンピュータへの接し方は、私がこれまで会話を交わしたことのある、コンピュータに興味のあるベビーブーム世代の大半において典型的にみられるそれだった。彼女はコンピュータで楽をしたいと望んでいたが、そのために乗り越えなければならない壁が彼女を挫折に導いていた。電子メールの使い方を学び、他にもいくつかの事をインターネットで学び‥‥まぁそのへんで終りだね。

私はずっと、コンピュータはあまりにも使いづらいと感じていたし、ファイルシステムなんてものをユーザに意識させるべきじゃないと感じていた。人とコンピュータの交流においては人に重きをおくべきだともね。
こういったやりとりが見られるようになったと言うこと自体が良い兆候なのだ(訳注: iPad のもたらした良い兆候ということ)。我々のような、毎日コンピュータに関する細々とした事に取り囲まれて生きている者にしてみれば、そうでない人々の世界があるということはつい忘れられがちだ。コンピュータがわからないと言うのは彼らのせいじゃない。我々のせいなのだ。

Apple はこうした人々を取り込むためならば先進的な機能の幾つかを放棄しても充分な見返りがあると判断した。アプリケーション作製に携わるものならば誰であれ、これと同じ道を歩もうと考えるのが賢明というものであろう(注意:これはコンピュータ・アプリケーション作製についてだけでなく、そんな分野のことは知らんと言う人々について、より一層あてはまることだ。コンピュータやアプリを良く知っている人についても同様のことが言える。なぜならこのやり方のほうが「ベター」なのだから。)

まずは製品を利用出来るようにして欲しいという、人びとにとって何にもまして重要な事柄を放棄して、コードや特定の UI の一部をいじくりまわしたり愛着のある機能を追加したりするのに過大な努力を注ぎ込むと言うのも、まぁよかろう。だが、人々がその最初の関門をクリア出来なければ、その先なんて無いんじゃないか?

人工降雪機を動かし始めるのも良いだろう。回転競技のコースを完璧に組み立てるというのも良いだろう。モーグルのコブ斜面を正確に形作るというのも良いだろう。だがもし人々がリフトに乗ることすら出来ないのであれば、レースなんて出来やしない。


訳者コメント:
本件に関してはこの記事も実にためになる良い記事です。iPad は "The Computer For the Rest of Us" の第 n 弾なわけでして、いわゆるガジェットオタクほど iPad のことを非難するというのは、ある意味、当然なわけです。そんな人に対して Jobs はこう返すわけですがね「ほんならオマイら一生 NetBook で Windows 使っとけやw」

[Geek And Poke] アヒルちゃうやんw

[Geek And Poke] Finally! After Having Made Several Lame Jokes About It Geek&Poke Explaines "Duck Typing"

たぶんこのアヒルは super duck か meta duck なんだと思う。マンダークが改造したアヒルのダッキーとかw。そして「こうなっちゃアヒルも型なしだな」といったオヤジギャグを言うのは lame duck ということですな。

2010年2月4日木曜日

[Geek And Poke] 10まで数えられるかな〜

[Geek And Poke] Mini Geeks

ということは、先生は COBOLer もしくは FORTRANer ということですね、わかります。

2010年2月3日水曜日

[Geek And Poke] キックオフミーティングによくある風景

[Geek And Poke] This Time

この場合 "this time" は「今度こそ」と訳すのが適切だね。あまりにも「あるあるー」なので訳しておきたい。
「今度こそ、全ての行に関してきちんとテストを書くようにするぞ」
「うん!そして今度こそ、初日からドキュメント書くようにするぞ」
うん!そして今度こそ、要求仕様の追加でリソースが足りなくなるハメに陥らないようにするぞ」
うん!そして今度こそ、日々の作業集約をするぞ訳注: マーティン・ファウラーのこれですな)
うん!そして今度こそ、現実に即したプロジェクト遂行計画をたてるぞ」
うん!そして今度こそ、全てのテストを通らない限り製品を出荷しないようにするぞ」
うん!そして今度こそ、定期的なリファクタリングを行うようにするぞ」

”始まりというものには魔法の力が宿っている” − ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演戯』より

なんか涙で前が見えないんですけどw

[37sugnals] 見積りとは約束ではなく推測なのである

(原文: It's not a promise, it's a guess

「いつカタが付くんだ?」というのは理に適った問いであり、我々ソフトウェア開発者としては、経験と分析に基づいた最良の答えをひねり出すよう努めるべきだ。だが、人々にその答えを厳正なる約束とみなされるのは避けるべきだ。

諸君が見積もりというものを推測ではなく約束だとみなしてしまうと、諸君は自らをその仕事に縛り付けることになる。もし諸君が締め切りを守れなかった場合、諸君は落伍者となる。誰も落伍者などにはなりたくないからそれを避けるため、徹夜仕事といったリスキーな行動に走るのもやむをえないと考えるようになったり、ボロボロもしくはきちんとテストしていない粗悪なコードをリポジトリにチェックインするといった行動をとるようになってしまう。

一度や二度ならば、がむしゃらに頑張って見積書に書いた約束を守るという事も出来ようが、結局のところ長続きしない。ソフトウェア開発と言うものは本質的に予測不可能なものなのだ。あまりにも多変量的であり、氷山の一角しか見えないものなのだ。

だが、もし諸君が見積もりというものを「仕事に取り掛かる前に知り得た限られた情報をもとにした最良の推測」と考えることが出来れば、諸君は組織変更によって事に対処したり、締切という苦役の輪廻を打破することが出来るようになる。作業は共同作業となり、新たなる発見についても関係者間で情報共有出来るようになる。

新規に設計されたフィーチャーがあって、盛り込むにはある種の根本的なインフラ変更が必要で、そのためには見積もりでは一日で済んでいたものに更に二日を要すると後に判明したら諸君はどうする? 多分、考えるまでもないことなのだ。関係者にこう聞けば良い、一日で済むはずが三日になるけどそれでもそのフィーチャーにこだわりたいの?と。インフラ変更なしで済むように単純化する方法はないもんかね?と聞くという手もある。

これこそが見積もりというものの持つ真の価値である。すなわち、妥協点を探るための対話の場を設けざるをえないという状況を作り出してくれるのだ。自縄自縛するためのものではない。


訳者コメント: DHH の徹夜嫌いは筋金入りなようで、過去にも関連記事として
[37signals] これは問題だと認めることから始めよう
というのがあったりする。仕事中毒が結局はリスクとなるというのは誰もが認めるところだけど「誰も落伍者になどなりたくない」という DHH の言葉通り、開発者の大半はボロボロになりながらも歯を食いしばって前進(足踏み?)する。このマゾ的輪廻を断ち切るのに私は18年を要した。我ながら頭悪過ぎである。

2010年2月2日火曜日

[Apple] iPad が書籍を越えるのはいつか?

もちろん電子書籍リーダがすぐに代替品として役割を果たしうる分野はある。重たい辞書や山ほどの教科書を置き換えるものとして、というのがそれにあたる。だが、現行の紙媒体にはまだまだアドバンテージが有る。
  • 文庫本なんかは、そのモビリティの高さ・UI 完成度の高さ・解像度の高さ・消費電力の低さ等から言って、ほぼ最強である。少なくとも解像度で言えば、とりあえず一般的なカラー印刷品質であれば 350dpi は必要なわけで、iPad の 132dpi 程度では話にならない。
  • 書き込みが出来ないうちは「自分の本」とは言えない。書き込み(マーキング)とは、コンテンツに対する個々人のコンテキスト付与であり、その名の通り「匂い付け」であり、それが出来ないうちは自分の本と呼ぶに値しない。
前者については機器スペックの向上によりカバー出来る部分が多いが、後者については読書という行為の根本に関わることであり、ビジネスチャンスはここにこそある。書き込みには豊富で多様なメタデータが含まれているからだ。コンテンツビジネスを越えてコンテキストビジネスを産むチャンスなのだ。ディスプレイ(出力デバイス)としての書籍だけでなく、入力デバイス、つまり注釈やツッコミを入れる等のインタラクションをするためのデバイスとしての書籍に思い至らない限り、電子書籍は紙媒体の壁を越えられないのだろう。

ということで今回の iPad に関しては、Audio/Video 視聴におけるテキスト・ビジュアル要素(CDのオペラ対訳なんかにはぴったりだ)に関する UX 改善をメインとして直近のネタを消化しつつ、次世代書籍への踏み台として、本体だけでなくサーバサイドも含めた新たな読書 UX というものを考えていく素材としたい。やっとハイパーテキスト環境の本命が出てきた感じで、オラわくわくしてきたぞw

関連記事: [メモ] 電子書籍リーダーが花盛り

2010年2月1日月曜日

[Apple] ω → α

敢えて iPad というまぎらわしい名前を付ける理由は、
  • Jobs 爺さんボケちゃって、素で気付いていないから
  • 実際のところ、まぎらわしいと感じているのは少数派だから
といったところなんだろうが、単穴として
  • 今後、iPod を iPad に統合して行きたいから
というのを挙げておく。