「肉体は魂の牢獄である」とはプラトンの弁であるが、これを引いて「肉体などどうでも良い」と捉えるのは早計である。
師ソクラテスの最後の言葉「魂の配慮」を胸中にイデアを目指したプラトンにとって、肉体はある種の必要悪であった。彼自身相当にマッチョであったので、自己嫌悪は相当のものであったろう。巨乳さんの自己嫌悪と似たところがあるかもしれない。自らの、必要以上に鍛え上げた肉体を牢獄と言い切った背景には、そんな思いがあった。
かと言って、彼自身政治家を目指していたことから窺えるように、公私と同様に心身もまた不可分であることをプラトンは痛感していた。アテナイに必要なのは心身と言うハード・ソフト両面にわたって充分なスペックを備えた市民であり、肉体蔑視の引き篭もりソフィストになれなどと言うわけにはいかなかったのだ。
だからプラトンは、魂へのリソース配分を最大化するためには肉体へのリソース配分を最小化する必要が有り、そのためにはインフラ最適化作業としての肉体の鍛錬が必要である、と主張した。つまり、師の言う「魂の配慮」を最大化するためには「肉体への配慮」が最小限で済むようにする必要があると解釈したのであり、魂に害を及ぼす肉体にはするなということであった。「戦士は戦士の要らない世界を実現するために戦う」と言うが「肉体は肉体を限りなく無に近付けるために自ら鍛錬を欲す」と言い換えても良いのだろう。
エピクロスを単なる快楽主義者と捉え、肉欲の最大化とその充足を目指す間抜けは、上に述べたのとは逆向きの早とちりをしている。エピクロスの目指したアタラクシアはミニマルな姿勢からしか生まれ得ない。つまりミニマルな欲求こそがマクシマルなアタラクシアをもたらすということだ。アタラクシアとは平静なる魂に他ならず、肉体は必要最低限のオマケ程度で良い、という主張こそがエピクロスの哲学であった。
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