2009年10月27日火曜日

[メモ] 電子書籍リーダーが花盛り

[Technologizer] The E-Reader Explosion: A Cheat Sheet

Daring Fireball 経由で知った記事なのだが、この件については John Gruber が言及している通り、製品カテゴリそのものの寿命について不透明な部分が多い。私もこういった電子書籍リーダーは1980年代の日本におけるワープロ専用機的な位置付けにとどまると考える。つまりは昔ながらの「専用機器 vs. 汎用機器」の図式であり、iPhone や Android といった汎用機器が全て飲み込んでしまうだろうというありがちな予想だ。

ただ、電子書籍リーダーに関してはあちらとこちらの温度差のようなものを確かに感じる。ASCIIコード圏ではもともとタイプライターという清書機器があったので、早々に PC 上のワードプロセッサソフトとへ移行したが、日本ではそういった機器がなかったのでワープロ専用機が長いこと幅を利かせていた。これと似た様な事があちらでは電子書籍リーダーというジャンルで起こっているようで、どうやらあちらでは電子書籍リーダーが、日本におけるワープロ専用機のようにある程度は生き長らえるのではなかろうか。

あちらでは汎用機器の解像度やmobilityが向上するのを待つくらいなら既に実用レベルに達している専用機器を買うという選択肢を採った。日本では、コンテンツの充実度や文字表示に必要な解像度の違いという点で現段階の電子書籍リーダーはあまり魅力的にうつらないだけで、実用レベルになればこのジャンルも熱くなる、というのが一般的見解だろう。

だが私は、そういったスペック上の問題が解決されたとしても、日本においては電子書籍リーダーというジャンルは寒い状況が続くのではないかと考える。この温度差を産む原因として「本を読む」という行為そのものについて東洋と西洋には決定的な違いがあり、その根っこにはおそらく「意味」というものに対する姿勢の違いがあると見ているからだ。

西洋の「意味こそ重要」という一神教的(つまり自然科学的)文化に対し、東洋(特に近世より前の日本)では「意味なんて飾りです、偉い人にはそれがわからんのです」とばかりに、意味からはみ出し滲み出た響や姿や佇まい、そして意味の背後に隠れているものを重んじた。いわゆるセマンティックWEBが、東洋では使い物にならないお粗末なレベルの代物でしかない理由はここにある。多分、チューリングマシンでは駄目なのだろう。抽象化により削ぎ落とされる部分にこそ日本語の旨味があるからだ。

もちろん西洋が一枚岩であるわけなどない。ダンセイニやイェイツあたりを嚆矢と言って良いと思うのだが、カトリック的合理主義以前(というかグレコローマン以前?)の「古い」Celtic な世界が「新しい」科学として取り込まれる動きがある。おそらくこれによりチューリングマシンやノイマンアーキテクチャを越えるコンピュータサイエンスの成果が産まれてくるのだろう。西洋と東洋は、その時点でようやく出会えるのかもしれない。

白洲正子先生が『私の百人一首』新潮選書版あとがきで「言葉には言魂(ことたま)というものがあり、意味だけわかっても、それこそ何の意味も無い」とおっしゃっていたことを思い出す。もしかすると semantics をいったん捨ててかからないことには日本におけるコンピューティングの未来は開けないのではないか。

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