2010年2月5日金曜日

[37signals] 人々に「私ってアホなん?」と感じさせるコンピュータなんて作るべきじゃない

(原文: Computers shouldn't make people feel like idiots

iPad は力不足だと言う人が、まぁ想定の範囲内ではあるが、居るようだ。「キーボードは必須だよね」「バッテリーは取り外し可能でなきゃね」「マルチタスク可能でなきゃね」といった類の。

だが、こういった反動に対する興味深い反動が存在している(メタ反動ってやつか!)。この議論は、技術オタクが普段はネタにしないような不愉快極まる現実に関する率直な議論を、人々にもたらした。「一般の人はコンピュータの使い方なんて知らないよ」「バカとはとても言えないような人でもそうなんだぜ」「そういう人が何百万も居るんだよ」「立派な大人でもそうなんだ」「時代遅れにも程があるだろ」といった感じの。

(以下の引用における太字強調は私が行ったものである)

Fraser Speirs は "Future shock" でこう書いている:
ハイテクが大のオトナを子供扱いするという幼児化作用を目にするに付け、私はしばしば憂鬱になる。そこはハイテクが人々を支配下に置くために人々を子供時代に押し戻す世界であり、そこでは悪魔が、魔法や呪文やその土地の呪術師でしか対抗出来ない悪魔が、姿を現して人々を苦しめたり自由自在に姿を消すという中世さながらの世界だ‥‥

本当の生産活動とは、余白の設定をすることなんかじゃないし、プリンタドライバをインストールすることでもないし、ドキュメントをアップロードすることでもないし、パワポのスライドを仕上げることでもないし、ソフトのアップデートをしたり OS の再インストールをすることでもない。

本当の生産活動とは、子供に教えたり、患者を癒したり、家を売ったり、道路の損傷状況を記録したり、路傍で車を修理したり、テーブルに座った人々の注文をまとめたり、家を設計したり、パーティのまとめ役をするといったことなのだ。
Steven Frank はこう語っている
Apple ][ や C64 や Atari 400 のころからずっと、我々のやってきたことといえば機能の追加ばかりだった。機能を増やせば増やすほど売上が伸びた。何かを取り除くために歩みを止めてじっくり考えるなんてことは一度も無かった。

「コンピュータを使いこなせない奴なんて知的障害者に決まってる」という考え方には(たとえそれが皮肉で言っているのだとしても)もううんざりだ。

「使い易い」ユーザインタフェースを持ったアプリケーションを我々が知恵を絞ってでっちあげたとしても、その御大層なアプリを ZIP ファイルやディスクイメージファイルからどうやって取り出せば良いのかわからない人々が何百万人と存在する。ダウンロードフォルダは一体どこにあるんだ、というのもある。それ以前に、フォルダって何のこと?っていうのすらある。もし我々が、DOS や AppleSoft からこのかた連綿と続いてきたパソコン進化史とともに歩んできたのでなかったら、そんな人々と同様のひどい混乱に陥るだろう。賭けても良いぜ。
Rob Foster は "iPadとおばあちゃんと市場の流れの変化について" でこう述べている:
例のキーノートスピーチの日、お義母さんがうちに来て、開口一番「おまえ例のiPad ってのを見たかい? 私でも使えそうに見えたんだけどねぇ。どうかねぇ?」

私は完全に面食らった。彼女がコンピュータやテクノロジーの話をするなんてこれまで一度たりとも無かったからだ。コンピュータについては、どう見ても、我慢しながら使っているといったところだった。彼女のコンピュータへの接し方は、私がこれまで会話を交わしたことのある、コンピュータに興味のあるベビーブーム世代の大半において典型的にみられるそれだった。彼女はコンピュータで楽をしたいと望んでいたが、そのために乗り越えなければならない壁が彼女を挫折に導いていた。電子メールの使い方を学び、他にもいくつかの事をインターネットで学び‥‥まぁそのへんで終りだね。

私はずっと、コンピュータはあまりにも使いづらいと感じていたし、ファイルシステムなんてものをユーザに意識させるべきじゃないと感じていた。人とコンピュータの交流においては人に重きをおくべきだともね。
こういったやりとりが見られるようになったと言うこと自体が良い兆候なのだ(訳注: iPad のもたらした良い兆候ということ)。我々のような、毎日コンピュータに関する細々とした事に取り囲まれて生きている者にしてみれば、そうでない人々の世界があるということはつい忘れられがちだ。コンピュータがわからないと言うのは彼らのせいじゃない。我々のせいなのだ。

Apple はこうした人々を取り込むためならば先進的な機能の幾つかを放棄しても充分な見返りがあると判断した。アプリケーション作製に携わるものならば誰であれ、これと同じ道を歩もうと考えるのが賢明というものであろう(注意:これはコンピュータ・アプリケーション作製についてだけでなく、そんな分野のことは知らんと言う人々について、より一層あてはまることだ。コンピュータやアプリを良く知っている人についても同様のことが言える。なぜならこのやり方のほうが「ベター」なのだから。)

まずは製品を利用出来るようにして欲しいという、人びとにとって何にもまして重要な事柄を放棄して、コードや特定の UI の一部をいじくりまわしたり愛着のある機能を追加したりするのに過大な努力を注ぎ込むと言うのも、まぁよかろう。だが、人々がその最初の関門をクリア出来なければ、その先なんて無いんじゃないか?

人工降雪機を動かし始めるのも良いだろう。回転競技のコースを完璧に組み立てるというのも良いだろう。モーグルのコブ斜面を正確に形作るというのも良いだろう。だがもし人々がリフトに乗ることすら出来ないのであれば、レースなんて出来やしない。


訳者コメント:
本件に関してはこの記事も実にためになる良い記事です。iPad は "The Computer For the Rest of Us" の第 n 弾なわけでして、いわゆるガジェットオタクほど iPad のことを非難するというのは、ある意味、当然なわけです。そんな人に対して Jobs はこう返すわけですがね「ほんならオマイら一生 NetBook で Windows 使っとけやw」

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