“A Talking Head Dreams of a Perfect City,” という記事でデビッド・バーンは、異国の街に対する愛着をこう記している
シェフがイタリア人でエンジニアがドイツ人という国があったらそこは天国だ、という古いジョークがある。逆だったら地獄というのもね。試しに、完璧な街ってどんなものなのかと考えてみたところ、それぞれの街の最も良質なところを混ぜ合わせたような場所、というのを思い付いた。組み合わせは無限だ。私なら多分、夜遊びはニューヨークなんだけど場所的にはシドニーで、そこにはバルセロナにあるようなバーや、メキシコシティにあるような屋外のレストランでシンガポール風の料理を楽しむ、ということになる。京都における人々のもてなしと上品さを基盤に、スペインにおけるユーモアのセンスという層を重ねるというのもありかもしれない。もちろん現実には、こんないいとこどりなんてありえない。街の持つクオリティというものは街の持つコンテキストすなわち背景や状況なしには発展し得ないものなのだから、というのがその大きな理由だ。その土地の料理・建築・言語というものは何らかの要因により相互に絡み合っており分かち難いものだ。だがそれでも、人はそんな街を夢みる。バーンの記事は実に魅力的だが、最初に彼が警告している通り、個々の要素をばらばらにして取り出す「いいとこどり」という考えは夢物語にすぎない。クオリティはコンテキスト無しには発展し得ない。全てのものは相互に絡み合っているのだ。
人参の核心にあるもの
これに関連した事例として(Michael Pollanにより広められた)"the soul of carrot(人参の核心にあるもの)" がある。科学者達は人参から健康に有益な成分を分離抽出する試みを続けている。彼らは人参に含まれる15のカロチンを識別したが、カロチン錠剤では実際に人参を食べることでもたらされる健康上の有効性は得られないという結果に終わっている。Pollan は、食物科学者達の還元主義のどこに問題があるかをこう述べている:
私達は人参が体に良いと知ってます、そうでしょ? 長いこと食べて来ましたし、癌予防に役立つ成分はベータカロチンだという仮説も立てられるに至りました。人参がオレンジ色に見えるのはベータカロチンのせいです。私達はそこで、ベータカロチンを抽出してサプリメント錠剤を作って人々に投与したところ、うーんと頭をひねることになりました。一定数の人について、より多くのサプリを飲んだ人の方が病状が悪化したのではないかとかベータカロチンによって癌の発症率が上がったのではないかと思わせる結果が出て、この結果に頭を掻きむしる科学者を見るに至ったのです。解釈としては2通りあります。どっちが正しいかはわかりません。でも、ベータカロチンが癌予防のための主成分では無いというのは、解釈の一つとして間違いなくあります。人参には他に50種類ものカロチンが含まれているというのは御存知の通りです。健康に有効な成分を分離するというのは思った以上に困難だ。未だ明らかになっていない組み合わせによりもたらされる効能があるのだ。我々がまだ完全に理解出来ていない核心がそこにはある。
食べ物というのは非常に複雑なものです。それは、えーとですね、未開の荒野のようなものであり、私達は人参の核心部分の奥底で一体何が起こっているのかを理解していないのです。そして私達は、そんなものは化学物質というものに単純化出来るなんていう考えによって、我々自身を欺くべきではないのです。それはまた、異なる物の間に起こる何らかのシナジー(訳注: 相異なる物が協同して起こる作用)なのかもしれません。ベータカロチンは葉緑素との複合体という形でも見つかっており、健康に寄与するのはこの組み合わせなのかもしれません。重要なのは、人参を食べる者としての視点からすれば、人参の効能をもたらすものは何か?を知る必要なんて無いのだ、ということなのです。私達は人参を食べる事が出来、それは美味しくて体に良い。それだけの事です。
全体というものは部分の総和よりも大きくなる事がしばしばある
こんにちの、ばらばらにしてからカット&ペーストするというのが主流の世界では、物事の一番良い部分だけを選り抜こうという考えになりがちだ。クライアントにデザイン提示する際の "show three comps(見本を3つ提示せよ)" (訳注:comp とは comprehensive layout のことで、広告・印刷業界ではカンプと呼ばれる。製作物の仕上がりを具体的に顧客へ提示する為の見本のこと)という手法について考えて見てほしい。同じ様な事がこの場合でも間違いなく起こる。顧客がデザイン#1からいくつかデザイン要素を抜き出し、デザイン#2からは2つ抜き出し、デザイン#3から数個抜き出す。そしてデザイナーはこれらの部品からフランケンシュタインでも作るように継ぎ接ぎして「完璧な」合成物を作り上げようとするのだが、その結果は完璧にはほど遠いものになってしまう。「いいとこどり」が全体のまとまりをぶちこわしにしてしまうというのはそういうことなのだ。出来上がった製品は、統一感を欠いた寄せ集めのコラージュのように見えてしまう。
いいとこどりをするという事は、対象の完全無欠生を損なうという事にほかならない。対象を偉大なものたらしめている目に見えない側面を失ってしまう事になるのだ。全体をつなぎ止めている目に見えない糸を切ってしまう事になるのだ。魂のこもった物ではなく雑多な寄せ集めを手にするハメになってしまう。
改良する・洗練する・アイディアを組み合わせるといった努力をすべきではないなどと言うつもりは無い。仕事を進めるにあたって出費に見合う見返りがあるかどうか考えてみる、という事だけ心に留めておいてほしいのだ。
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