2009年12月21日月曜日

[メモ] 教育・読書・習気・半分

松岡正剛先生が岡潔『春宵十話』を千夜千冊している中で、岡潔の考えとして
日本はいま、子供や青年たちに「自分」ということを早く教えようとしすぎている。こんなものはなるべくあとで気がつけばよいことで、幼少期は自我の抑止こそが一番に大切なのである。
 自分がでしゃばってくると、本当にわかるということと、わからないということがごちゃごちゃになってくる。そして、自分に不利なことや未知なことをすぐに「わからない」と言って切って捨ててしまうことになる。これは自己保身のためなのだが、本人はそうとは気づかない。こういう少年少女をつくったら、この国はおしまいだ。
という一節を示している。この一節を目にして、私は、梅園談とされる『洞仙先生口授』の
一、天地を知らんとならば、先(まず)天もなく日月山河もなく、人に聞きたることもなく、見たる事もなく、まして書物は猶読みたることもなき身が、ひよつとそこに出で来て、扨(さて)、かわつた物の見ゆる物があるぞ、きこゆる物があるぞ、なにやら思ふ物があるぞと、はて、あじな物が出(いで)来て、先(まず)、是がをれ(俺)と云物なるべしと思ふ場より、物ごとを知りたり思ふたりするくらひになりて、それから工夫を下すべし。
という一節を思い出した。「知」について自力で最初の一歩を踏み出せるようになるまでは、周りがおかしな干渉をすべきではないという主旨が共通している。今でもやはりそうなのだが、所謂「習気」に自分をどっぷりと浸けることが、昔から教育の肝要とされてきた。それが「大人になる」ということなのだと看做されてきた。

この方法は半分正しいが、残り半分は「習気(ドグマ)に安住する」という害毒をもたらすことになる。梅園はこの習気の害毒という半面に特に注目し、それを排することが重要であると自らの自然哲学を通じて述べている。「一、一即一」の思想を追求した梅園が習気の害毒と言う半面だけをことさら取り上げ、残りの半分についてあまり言及しなかったのは不思議なところではあるが、その理由は、やはり当時も今と同様「オトナ」がのさばる一面的教育が世界を覆っており、そんな世界の風通しを良くするには、ある種のポジショントークが必要だったからなのだと思う。

それでは、習気の残りの半分はどうなのかと言うと、いきなり具体例で恐縮なのだが「寺山修司言うところの『書を捨てよ』は、実は、『書に即け。爾後、書を捨てよ』というコンテキストで捉えないと滅茶苦茶になる」といった主旨になるかと思われる。習気を去るならば、まず習気に首まで浸かってみろ、ということであり、個性を開花させたかったら、いったん型にとことんはまってみろ、ということだ。型に納まり切れなくてはみ出した部分、それこそが個性であり「その人の持ち味」なのだ。

読書や教育というもの(というか、もしかすると、全てのもの)は、そもそも、効能と害毒を併せ呑む覚悟で臨まねばならぬものだ。これを忘れたとき、読書や教育というものは単なるビジネスとなる。そしてこのビジネスにおいて業即是業の原則が忘れられている場合は、もはや最悪である。

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