2009年7月20日月曜日

[メモ] 業即是業

訓読するなら「ギョウはすなはちこれゴウなり」で、意味的には「business とは karma そのもの」とすれば理解しやすいと思われる。「何らの罪も犯さずして生きる事など不可能」「生きるとは即ち、自らが罪業にまみれている事を悟りそれでもなお進むという瞬時ゝゝの決断を積分していくことに他ならない」といったところか。

『常用字解』によると「業」は象形で「楽器を並べて懸ける器」とある。この「業」に似た道具で土を搗き固める作業を行った事から「業」に作業・仕事の意味が生じたらしい。business の意が最初に生じたわけだが、では「業」から karma の意が演繹されたのはいつころなのだろう?

この疑問を持ったとき「日本っていったい何なんだろう」という感慨が同時に湧いた。なぜかというとこの疑問に関し「キリスト教には元々『原罪』というアイディアがあったし、仏教でも四大苦の初っ端は『生』だからね」といった借り物の概念を思索の取っ掛かりにしている自分に気付いたからだ。

もちろん契沖・宣長等を入り口に、借り物でない概念を古代に遡って求める事も出来る訳だが、その途中にはやはり和漢朗詠集や本地垂迹といった「ハイブリッド化」のキーワードが転がっている。さらに遡る事も出来るのだろうが、その先にあるものは日本固有なのかそれとも人類普遍なのか?

きりがない。今のところ私が確信を持って言えるのは「日本人として生きること即ちハイブリッド化作業を通じて生きるということにいつのまにかなっちゃった」という程度のことだ。

松岡先生はハイブリッド化などといったケチな了見でなく、広く『編集』という観点から編集的日本人とでもいうべき日本のメソドロジーを探求・紹介しておられます。私にとって果てしなく思える道を往く先生の後ろ姿が遥か遠くに見える。

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