2009年12月24日木曜日

[Google] "Don't be evil" ってのはタテマエであって

裏を返せば「俺たちゃいつでも邪悪になれるんだぜ hehehe」というわけでして、正直言って、 openness という仮面を過大評価しすぎだと思いますがね。いざとなりゃ中共とも手を結ぶ奴らでっせw

2009年12月21日月曜日

[メモ] 教育・読書・習気・半分

松岡正剛先生が岡潔『春宵十話』を千夜千冊している中で、岡潔の考えとして
日本はいま、子供や青年たちに「自分」ということを早く教えようとしすぎている。こんなものはなるべくあとで気がつけばよいことで、幼少期は自我の抑止こそが一番に大切なのである。
 自分がでしゃばってくると、本当にわかるということと、わからないということがごちゃごちゃになってくる。そして、自分に不利なことや未知なことをすぐに「わからない」と言って切って捨ててしまうことになる。これは自己保身のためなのだが、本人はそうとは気づかない。こういう少年少女をつくったら、この国はおしまいだ。
という一節を示している。この一節を目にして、私は、梅園談とされる『洞仙先生口授』の
一、天地を知らんとならば、先(まず)天もなく日月山河もなく、人に聞きたることもなく、見たる事もなく、まして書物は猶読みたることもなき身が、ひよつとそこに出で来て、扨(さて)、かわつた物の見ゆる物があるぞ、きこゆる物があるぞ、なにやら思ふ物があるぞと、はて、あじな物が出(いで)来て、先(まず)、是がをれ(俺)と云物なるべしと思ふ場より、物ごとを知りたり思ふたりするくらひになりて、それから工夫を下すべし。
という一節を思い出した。「知」について自力で最初の一歩を踏み出せるようになるまでは、周りがおかしな干渉をすべきではないという主旨が共通している。今でもやはりそうなのだが、所謂「習気」に自分をどっぷりと浸けることが、昔から教育の肝要とされてきた。それが「大人になる」ということなのだと看做されてきた。

この方法は半分正しいが、残り半分は「習気(ドグマ)に安住する」という害毒をもたらすことになる。梅園はこの習気の害毒という半面に特に注目し、それを排することが重要であると自らの自然哲学を通じて述べている。「一、一即一」の思想を追求した梅園が習気の害毒と言う半面だけをことさら取り上げ、残りの半分についてあまり言及しなかったのは不思議なところではあるが、その理由は、やはり当時も今と同様「オトナ」がのさばる一面的教育が世界を覆っており、そんな世界の風通しを良くするには、ある種のポジショントークが必要だったからなのだと思う。

それでは、習気の残りの半分はどうなのかと言うと、いきなり具体例で恐縮なのだが「寺山修司言うところの『書を捨てよ』は、実は、『書に即け。爾後、書を捨てよ』というコンテキストで捉えないと滅茶苦茶になる」といった主旨になるかと思われる。習気を去るならば、まず習気に首まで浸かってみろ、ということであり、個性を開花させたかったら、いったん型にとことんはまってみろ、ということだ。型に納まり切れなくてはみ出した部分、それこそが個性であり「その人の持ち味」なのだ。

読書や教育というもの(というか、もしかすると、全てのもの)は、そもそも、効能と害毒を併せ呑む覚悟で臨まねばならぬものだ。これを忘れたとき、読書や教育というものは単なるビジネスとなる。そしてこのビジネスにおいて業即是業の原則が忘れられている場合は、もはや最悪である。

2009年12月19日土曜日

[三浦梅園] ぴちぴち

しからば、神、その状、いかがぞといへば、唯活潑々地、俗にいはゆるぴちぴちなり。条理の道、次第に天地を剖析し、剖所にしたがひて其反態も変化を尽し、然して物の分るる処、各々一神物を成立すれば、其なりの出来様と其ぴちつきのし様とは千態万貌、異なれども、火は火の体をなして火のぴちつきをなし、水は水の体をなして水のぴちつきをなし、魚鳥、魚鳥の体にして魚鳥にぴちつき、天地、天地の体をなして天地にぴちつく。其ぴちぴちをさして鬱渤(* 渤は代字)といふ事にして、混淪は則物立ちて見(あら)はるる貌なり。

三浦梅園『多賀墨卿君にこたふる書』より
『玄語』入門篇として知られるこの書簡、三浦梅園先生のお茶目っぷりに多賀墨卿も萌え狂ったのではなかろうか。「習気(じっけ)を排せ」「反観合一」といった鹿爪らしい御教示も良いけれど、「ぴちぴち」の一語で森羅万象を説き尽くしたこの一節はまさに白眉である。

[37signals] 具体例がプレゼンを作り上げる

(原文: Examples make the presentation

ここ数年で私が知ったのは、講演や研修会では具体例を話し始めるとみんなのアンテナがピンと立つということだ。出来るだけ前置きを省略して単刀直入に具体例の話に入ると言うのが私の個人的目標になっているのだが、その理由は、そうすることでムードががらっと変わるからなのだ。具体例をおざなりにすると言うのは「出し惜しみ」というものだ。たしかに諸君の言いたいことを学説然とした形で話すことは可能だが、その学説を確かなものとして人々に印象づけるよう諸君を促してくれるのが具体例というものなのだ。具体例は諸君の言っていることが正しいかどうかを聴衆に見極めさせる。なにより良いのは、具体例と言うものが抽象的概念から混乱と色彩に満ちた現実世界へと視点を切り替えてくれる点にある。

カントの『美的判断力批判』(訳注: 『判断力批判』第一部)をアメコミの画像だけで説明しているこのワールウィンド・トーク(訳注: ワールウィンドつまり旋風のようにしゃべりまくるトーク形式)を目にした際、私は具体例の持つ力というものについて考え込まずにはいられなかった。



カントをこんなにも面白く語れるなんて思いもしなかっただろ?

(ネタ元: Schmüdde)

2009年12月18日金曜日

[Dion Almaer] クローム拡張機能とwebOSアプリはすごく似ている

(原文: Chrome Extensions and webOS Applications look quite similar


ちらっと見ただけでわかるけど、クローム拡張機能とwebOSアプリはすごく似ている
― 賢明なる友人談
webOS(訳注: Palmのモバイル向けOS)アプリとクローム拡張機能を書いてみてわかったんだが、そのそっくりさ加減と、書こうと思えばそっくりに書けるんだと言う事実に衝撃を受けた。

ブラウザ拡張機能の仕組みとモバイルアプリのランタイムライブラリの相似性というのは一見奇妙に思えるかも知れないが、良く見ると実は上位層において以下のような多くの共通点がある

サンドボックスからの脱獄

両者ともにブラウザのサンドボックス型実行環境という壁を打ち破る必要がある。
拡張機能(訳注: Firefox拡張機能のこと?)はこういった制約をもともと受けないし、クローム拡張機能においても(訳注: タブ毎のサンドボックスという制約があるクローム拡張機能においても)ブラウザのUI構成要素に関する各種APIにより、より広範なアクセスが実現されている。

webOSにおいても全く同様な問題がある。ネイティブアプリを構築する場合はこういった制約が無いのだが、Webアプリでは制約を受けることになるので新たにAPI・UIウィジェット・サービスAPIが追加された

この問題はwebOS・クローム拡張機能という2つの世界を越えて存在するものであり、近い将来、Webアプリ向ランタイムライブラリが受難することになる最も大きな試練のうちの一つである。私は、ランタイムライブラリでより多くのことが出来るようになり、データアクセスに関しても、サードパーティが運営しているサーバが提供するサービスを通じたデータアクセスだけではなくローカルマシンでも可能になってほしいと期待している。こういった願望は、以下に述べるような問題へと我々を誘う…

パーミッション

Webはパーミッション指定によるアクセス制御モデルになっている。サンドボックス環境では実行権限が制限されているし、世間の人々は何かと言うとすぐに(最重要課題である)セキュリティ云々について言及するけれど、もしWeb経由では実行不可能なことなどが生じてきたら、そんなセキュリティのことなんて忘れてしまう。exeファイルをローカルPCにダウンロードし、それが一体何をしでかすかを全く知りもせずに、ほいほい実行してしまうと言うのは良くある話だ。

Vistaの二の舞にならず、かつ、おバカさんなユーザを上手く導けるような実行モデルを作り出すと言うのは、我々にとって大いなるチャレンジだ。ユーザに対して今何が起こっているのかを確認させる一方で、馬鹿の一つ覚えのようにユーザに確認をとるのは避けたいという要望もバランスよく取り入れる必要がある。少なくともパワーユーザにとっては、何が行われているかを表示する方が良いと私は思う。たとえアプリケーションに対してより大きな実行権限を与えている場合であっても、いつ何が行われているかを見ることが出来れば色々と助かるだろうから。もちろんAPIレベルでアクセス制限が行われていれば言う事なしだ。社会的信用にかかわる部分を切り分けて、技術的に実現したセキュリティの上に配置させるような段階まで進んだ場合においては特にそうだ。Mozillaチームはまさにこのことについて多く言及しており、私はより多くのアイディアと実装が彼らから出てくるのを心待ちにしている。

(こちらの例ではChromeにおけるクロスサイトXMLHttpRequestのパーミッションをどうやって設定するかを見ることが出来る)

アプリケーションバンドル情報


パーミッション情報およびその他のメタデータがどこかに保持されている必要がある。webOSの場合、アプリケーションに関して宣言した情報が入っているappinfo.jsonというファイルがある。Chromeではmanifesto.jsonがそうだ。

Webでは本来こういったものは存在しない。URLを入力してそこを起点とするだけだ。たしかにHTML5のマニフェストではキャッシュその他のスコープ(訳注: 適用範囲のこと。HTML5では何をどこにキャッシュするかをマニフェストで指定出来る)をブラウザに通知するが、それ以上のことはしない。webOSアプリとクローム拡張機能ではより多くのことをシステムに通知出来る。id・バージョン情報・アップデート情報の所在・アイコン・main関数の有無なんかがそうだ。

顔の無いニワトリ

諸君は顔の無いWebアプリ(訳注: UIを持たないWebアプリ)というものを思いうかべることはあまり無いだろう。一方、顔の無いwebOSアプリやクローム拡張機能というのは思い当たるところがあるだろう。UIを持たないサービスが諸君のPC上で今いくつ実行されているかご存知? webOSではnoWindowフラグ付きで実行することが可能だが、そういったウィンドウを持たない各種サービスが提供する価値ある情報を、リッチでバリエーションに富んだ通知用UIを通じてユーザに提供することが可能である。バックグラウンド実行型アプリケーションが上手くサポートされているのだ

クローム拡張機能ではバックグラウンドページという概念により、長い実行ライフサイクルを持つタイプのアプリケーションを管理している。バックグランドページは以下に示すようなシングルトン(訳注: デザインパターンでお馴染み)になっている
バックグラウンドページを持つクローム拡張機能の典型的なもの、例えばブラウザアクションやページ・オプションページアクションは、ダムビュー訳注: 口のきけないビュー、すなわちビュー自身は表示機能を持たないということ)の形で実装される。ビューが何らかのステータス通知表示を必要とする場合は、ビューがバックグラウンドページに対してリクエストを発行することでステータスを取得する。バックグラウンドページがステータス変化を感知した場合、バックグラウンドページはビューに対し、ステータス表示を更新するよう要求する。
webOSとMojoフレームワークには、シンプルなモデル・ビュー・コントローラ定義だけでなく、アプリケーションのライフサイクルに関する詳細も盛り込まれたリッチなMVCシステムがある。

道のりは続く


この2つの世界やその他の世界(Jetpackとか)を見れば見るほど、これらがひとつに統合されてほしいと願う気持ちがつのる。要求される事は似通っているし、クローム拡張機能の側からクロームOSを眺めてみれば、進む道さえ間違えなければまだまだ前進の余地があるのだということが理解出来るだろう。


訳者コメント:INIT/cdev時代を知る人にとっては「拡張」機能じゃなくて機能「拡張」のほうが馴染み深いと思うんですが、どうなんでしょう? ググったところでは
拡張機能 の検索結果 約 8,200,000 件
機能拡張 の検索結果 約 7,700,000 件
ということで「拡張」機能が若干優勢。

2009年12月17日木曜日

[37signals] 広い意味での「管理」というもの

(原文: Control in its wider sense

多くの企業が従業員管理というものを追求している。管理手引書や管理方針といったものを完備し、電子メールを監視し、容認事項と禁止事項に関するルールを作製している。

だが「管理」というものは一筋縄ではいかないものだ。手綱を引き締めれば引き締めるほど、会社に対する不信感を生み出すことになる。「これは俺達と奴等の戦いなのだ」という心理が定着してしまう。この瞬間、管理システムを無駄に弄ぶというゲームが始まることになる。

だからこそ職場管理に携わる人々には、鈴木俊隆師が Zen Mind, Beginner’s Mind(邦題『禅へのいざない』)で以下のように述べていることについて、じっくりと考えてみてほしい。
人々を管理するための最善手は、彼らに「管理なんて糞食らえ」という姿勢を奨励することである。こうすることで彼らは広い意味での「管理」下に入ることになる。羊や牛を管理したいならば、広大な牧草地を与えることだ。人とて同じこと。まずは、やりたいようにやらせて様子を見守る。この方針が一番だ。見て見ぬ振りはよろしくない。見て見ぬふりは最悪の方針であるからだ。次いで最悪なのは、彼らを管理しようとすることだ。最善は見守ること。管理しようとするのではなく、ただひたすら見守ることだ。
管理手引書にはただ一言「我々は諸君を信頼している。管理なんてイラネ」とあるだけ。そんな状況を思い浮かべてみてほしい。


訳者コメント:自生的秩序というのはこういった背景のもとで生まれるわけです。秩序を求めるならばまずは混沌を、というのは言い過ぎかも知れませんが、世をつらつら見るに、どうみてもこの逆は真ぽいので、結構うまく行くんじゃないでしょうか。こういった混沌と秩序の相補性という観点は、未だに「東洋の智慧」みたいな感じで西洋においては魅力的に映るようです。ちょっと不思議なところではあります。まぁ確かに合理主義の半面がもたらす害毒に、ここ数百年というもの、地上は蝕まれ続けてきたわけで、それは我々日本人にも及んでいるわけで、結局のところ我々日本人にとっても忘れられた智慧になりつつあるわけですがね。

それにしても、大拙師といい俊隆師といい、禅宗のお坊さんはプレゼンが上手いです。マーケットの選択もバッチリですしね。「新鮮味を感じさせる」という観点からすれば東洋より西洋の方がニーズをより多く喚起出来るわけですから。

たしかに宗教と言うマーケットでは昔から「説法即プレゼン」なわけで、釈尊のカリスマ性も、土台としてのプレゼンの上手さがその構成要素のひとつとしてあるようです。説く法の魅力だけでなく、説き方の魅力(方便などのメソッド)や説く人の魅力(イケメンかつ王子様w)もトータルでプレゼンが構成されているというわけですな。

2009年12月16日水曜日

[Programming][メモ] PastryKit

[DARING FIREBALL] PastryKit
[ajaxian] PastryKit: An iPhone Webdev Library from … Apple

ようやく本命登場といったところだが、本件については、見落としてはならない点がひとつある。これは単なる「Objective-CからJavaScriptへ」「NativeアプリからWebアプリへ」という流れではなく「 脱 App Store」の流れでもあるのだ、ということだ。

あまりにも早くレッドオーシャンになってしまったApp Storeに別れを告げるためにApple自身が打ち出した施策、という観点でPastryKitをながめてみると面白い。せっかく掴んだモバイル市場、末長く収益を上げ続けるにはやはりこれが最善手という経営判断が窺える。

2009年12月15日火曜日

[メモ] なして?

何故そこまで「十全たれ」という事にこだわるのだろう? バロックでいいじゃん。バラックでいいじゃん。

[Geek And Poke] 量り売りな関係

[Geek And Poke] Friending

むこうにも「友達百人出来るかな」的な、人間関係を定量化学レベルにまで抽象化・矮小化して捉えるマヌケがおるということですな。

確かに社会性ってやつは最強のサバイバルツールではあるけど、それだけが異常に発達してしまうというのは、やはり、過剰適応という「Freaksへの道」につながる。自分は異形のものではないということを殊更に顕示した結果、得られたのが異形の烙印とは、何たる皮肉か。

2009年12月14日月曜日

[メモ] 牽強付会につき注意

『酉陽雑俎』と言えば「シンデレラ(落窪姫)」や『御伽草子』の「ささやき竹」といった物語の母型として知られているが、その作者である段成式の名前を見ていてふと思ったのである。「段成式→段成弐」なんじゃないかと。つまりダンセイニ卿なんじゃないかと。両者ともに幻想文学における定番的存在だし、名門の出という共通点もある。さては?ということなのだ。

自分でも馬鹿げていると思うが、ネタにはなりそうなのでメモっておく。ざっとググった感じでは、こんなアホなことを堂々と公の場で口にした御仁はいないようで、そりゃそうだよねw