It's everything, they say.
The end of a perfect day.
Distant light from across the bay.
Googleには全てがある。だがそれは蜃気楼だ。デジタル化されたものなど現実のほんの上澄みに過ぎない。タイムリーなネタで言うならば「現実の『本の』上澄みに過ぎない」とも取れるわけなんだが、こういった「コンテキストという蜃気楼を蜃気楼にする技術」「意味を越えて意図に達する技術」に関しては、どこを買収すれば手に入るんでしょうかね、Google先生。
20年前の私であれば「人生自体が蜃気楼なんだから全然問題無いっす」とかぬかしていたんだろう。当時の自分を張り倒したくもなるが、同時に、仕方ないかとも思うわけで、やはり、これはどうしようもない事なのだろう。全ては幻と嘯いて達観ぶるのも良いが、幻と呼ぶにはあまりにも重い「記憶」というものを、我々年寄りは背負ってしまった。幻だったはずのものが、重いしがらみとなった。
で、何が言いたいかというと「Googleとは距離を置け」ってことだ。人によっては「Twitterとは距離を置け」ということになるんだろう。目の前にあるものを現実だと思うな。現実はそのむこうにある。どうしてもデジタル化出来ないものが、確かに、現実には存在するのだ。
2010年5月10日月曜日
2010年4月16日金曜日
[メモ] わかってくださいよー
"Don't be evil." の逆は "Be good." じゃない。"Don't be good." だ。彼らはもう善悪の彼岸に居るんだってことを我々は忘れるべきじゃない。味方であると同時に敵なのだ。
ラベル:
BLADE RUNNER,
Google,
メモ
2010年1月22日金曜日
[メモ] わかるよ、わかるけどさ
『ツンデレ相対性理論』なんですが、やはり数式そのものに萌えてこそだと思うわけです。そこにツリ目や貧乳というイコンを置くことで達成されるのは、目的(理論)への接近ではなく手段(イコン)への接近でしかないと思うわけです。カスガさんが描く『虚航船団』に萌え狂っている私が言うのもなんなんですけどねw。虫ピンの話なんかもうね、いい歳したオッサンが夜中にボロボロ泣いてしまったわけでして。
筒井御大の目的は、物語云々より記号そのものに対する感情移入の可能性を問うことであり、それは充分に達成されているのですが、カスガさんの目的は、最初から萌え絵という感情移入しやすい記号を用いることで物語を掘り下げることにあるように思えます。その姿勢は DADoES を BLADE RUNNER に仕立て上げた HAMPTON FANCHER を私に思い起こさせるんですわ。オマージュってのはこうでなくちゃね。
筒井御大の目的は、物語云々より記号そのものに対する感情移入の可能性を問うことであり、それは充分に達成されているのですが、カスガさんの目的は、最初から萌え絵という感情移入しやすい記号を用いることで物語を掘り下げることにあるように思えます。その姿勢は DADoES を BLADE RUNNER に仕立て上げた HAMPTON FANCHER を私に思い起こさせるんですわ。オマージュってのはこうでなくちゃね。
2010年1月10日日曜日
2010年1月7日木曜日
[Google] はした金やんけ、ポンと払いーやw
[WSJ] Nexus Name Irks Author's Estate
今北産業すると
ちうか、Google 法務は気ぃ付かんかったんか? ありえねーw
今北産業すると
- Nexus という商標を勝手に使うなと P.K.ディックの娘さんが怒っている
- 今のところ Google 側スポークスマンはコメントを拒否している
- かたや Verizon は Droid を出す際にちゃんとルーカスと話を付けている
ちうか、Google 法務は気ぃ付かんかったんか? ありえねーw
2009年12月13日日曜日
[メモ] だめぽこそは人の人たる所以なれ
[DARING FIREBALL] ‘The Tortoise Lays on Its Back, Its Belly Baking in the Hot Sun, Beating Its Legs Trying to Turn Itself Over, but It Can’t, Not Without Your Help. But You’re Not Helping. Why Is That?’
[DARING FIREBALL] Google Coyly Acknowledges New Android Phones Given to Employees
[DARING FIREBALL] Google Hands Out Unlocked Android 2.1 ‘Google Phones’ to Some Employees
昨日、John GruberがGoogle Phoneをネタに一気に3つも記事を書いている。その中で
この記事自体は「ふーん」程度で済ませて良いのだが、リンクされているWikipedia(E)のReplicantの項にはロイ(Nexus-6)の弟としてのデッカード(Nexus-7)というPaul Sammonの所見なんかもきちんと載っており、好感が持てる。写真で一杯なデッカードの部屋が映し出された段階で、それとなく伏線が張られていたわけだが、最終版でユニコーンのカットが出てくるまではデッカードもまたレプリカントであると言う確証は得られなかった。FAQを見てもわかる通り昔から議論されていた問題ではあるけれど、原作至上主義者からの反論を覚悟の上で「デッカードもレプリカントだ」と "Future Noir: The Making of Blade Runner (1996)"(邦題『メイキング・オブ・ブレードランナー』)で言ってのけたPaul Sammonの卓見は素晴らしい。
ちなみに、Wikipedia(J)のレプリカントの項で紹介されている『撰集抄(松平文庫版)巻五第一五 作人形事・於高野山』は、「反魂」として知られる日本におけるホムンクルスやネクロマンシーの嚆矢であるが、西行が死者の復活方法について源師仲に相談した折に師仲が「四条大納言公任の流を受けて人を作り侍りき」と述べているあたりが実に面白い。藤原公任といえば文人としての側面しか現在では伺い知れないが、実は文人かつマッドサイエンティストであった。道長のもとで政務に当たった公任は、ほぼ同時代にブワイ朝ペルシアの宰相を務めた大錬金術師アヴィケンナ(イブン・シーナ)を彷彿とさせる。
ちなみついでに言えば、最後に出てくる「呉竹の二子は、天老と云ふ鬼の、頻川のほとりにて作出せる賢者とこそ申伝たるなれ」という部分は、実はガンダムSEEDへと繋がってくる。呉竹の二子とはすなわち伯夷・叔斉のことであり、『論語』や『伯夷列伝』に見られるこの二人の「おまいらはちよちゃんですか?」と言いたくなるほどの完璧超人ぶりはそのままコーディネイターのエリートぶりに繋がってくる。黄門様の人生を変えたのはコーディネイターの生き様だったというわけだ。人造人間については丁度いいタイミングでこんなトンデモ的ニュースも流れてきており、やはり富野御大は正しかったということかw
閑話休題。
で、思ったのは「人間の駄目さ加減を取り入れなければ、アンドロイドはいつまでたっても機械のまま」なのだということ。ロイとプリスが、J.F.セバスチャン言うところの "You are so perfect." なカップルであるが故にNexus-6であることを隠せなかったのに対し、ヘタレなデッカードにツンデレなレイチェルというNexus-7のカップルが、ぎこちなさや素直になれないもどかしさといった「人間らしさ」を我々に感じさせるあたり、やはり人間の本質は「不完全性」や「駄目さ加減」にあるんだということを我々に再確認させてくれる。
関連記事: [メモ] 『BLADE RUNNER』 と『ヨコハマ買い出し紀行』
[DARING FIREBALL] Google Coyly Acknowledges New Android Phones Given to Employees
[DARING FIREBALL] Google Hands Out Unlocked Android 2.1 ‘Google Phones’ to Some Employees
昨日、John GruberがGoogle Phoneをネタに一気に3つも記事を書いている。その中で
Mozilla/5.0 (Linux; U; Android 2.1; en-us; Nexus One Build/ERD56C) AppleWebKit/530.17 (KHTML, like Gecko) Version/4.0 Mobile Safari/530.17というユーザエージェント文字列が出ている(Nexus One を赤にしてみたら、オープニングで表示されるバックストーリーの "Known as a Replicant" みたいで気に入ったw)
この記事自体は「ふーん」程度で済ませて良いのだが、リンクされているWikipedia(E)のReplicantの項にはロイ(Nexus-6)の弟としてのデッカード(Nexus-7)というPaul Sammonの所見なんかもきちんと載っており、好感が持てる。写真で一杯なデッカードの部屋が映し出された段階で、それとなく伏線が張られていたわけだが、最終版でユニコーンのカットが出てくるまではデッカードもまたレプリカントであると言う確証は得られなかった。FAQを見てもわかる通り昔から議論されていた問題ではあるけれど、原作至上主義者からの反論を覚悟の上で「デッカードもレプリカントだ」と "Future Noir: The Making of Blade Runner (1996)"(邦題『メイキング・オブ・ブレードランナー』)で言ってのけたPaul Sammonの卓見は素晴らしい。
ちなみに、Wikipedia(J)のレプリカントの項で紹介されている『撰集抄(松平文庫版)巻五第一五 作人形事・於高野山』は、「反魂」として知られる日本におけるホムンクルスやネクロマンシーの嚆矢であるが、西行が死者の復活方法について源師仲に相談した折に師仲が「四条大納言公任の流を受けて人を作り侍りき」と述べているあたりが実に面白い。藤原公任といえば文人としての側面しか現在では伺い知れないが、実は文人かつマッドサイエンティストであった。道長のもとで政務に当たった公任は、ほぼ同時代にブワイ朝ペルシアの宰相を務めた大錬金術師アヴィケンナ(イブン・シーナ)を彷彿とさせる。
ちなみついでに言えば、最後に出てくる「呉竹の二子は、天老と云ふ鬼の、頻川のほとりにて作出せる賢者とこそ申伝たるなれ」という部分は、実はガンダムSEEDへと繋がってくる。呉竹の二子とはすなわち伯夷・叔斉のことであり、『論語』や『伯夷列伝』に見られるこの二人の「おまいらはちよちゃんですか?」と言いたくなるほどの完璧超人ぶりはそのままコーディネイターのエリートぶりに繋がってくる。黄門様の人生を変えたのはコーディネイターの生き様だったというわけだ。人造人間については丁度いいタイミングでこんなトンデモ的ニュースも流れてきており、やはり富野御大は正しかったということかw
閑話休題。
で、思ったのは「人間の駄目さ加減を取り入れなければ、アンドロイドはいつまでたっても機械のまま」なのだということ。ロイとプリスが、J.F.セバスチャン言うところの "You are so perfect." なカップルであるが故にNexus-6であることを隠せなかったのに対し、ヘタレなデッカードにツンデレなレイチェルというNexus-7のカップルが、ぎこちなさや素直になれないもどかしさといった「人間らしさ」を我々に感じさせるあたり、やはり人間の本質は「不完全性」や「駄目さ加減」にあるんだということを我々に再確認させてくれる。
関連記事: [メモ] 『BLADE RUNNER』 と『ヨコハマ買い出し紀行』
ラベル:
Android,
BLADE RUNNER,
John Gruber,
メモ,
古典
2009年8月28日金曜日
[メモ] インターネットはエンパシーボックスの夢を見るか?
久々にディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んで気付いたのは、インターネットとそれに接続された各種端末はまさにエンパシー(共感)ボックスなのだということ。携帯なしでは孤独でいたたまれない人々と本書の登場「人」物は完全にオーバーラップしている。たとえそれがかりそめであり虚構だとしても、人は人とのリンクを求めるものらしい。
まぁ、このネタ自体はもはや言い尽くされた感もあり、現実はというと「インターネットは人類補完計画の夢を見るか?」に至ろうとしている。人は人であるために人の姿を捨てなければならぬという命題の真偽値が判明するまであと最低6年は待たなければならないはずだったが、昨今の状況を見ると前倒しもありかもという気がしないでも無い。
まぁ、このネタ自体はもはや言い尽くされた感もあり、現実はというと「インターネットは人類補完計画の夢を見るか?」に至ろうとしている。人は人であるために人の姿を捨てなければならぬという命題の真偽値が判明するまであと最低6年は待たなければならないはずだったが、昨今の状況を見ると前倒しもありかもという気がしないでも無い。
2009年5月21日木曜日
[メモ] デッカードのセダン?
Citroën Karin


trapezoidal(台形の)という表現がぴったりな、シトロエンが1980年のパリサロンにて展示専用車として公開したこの一台。どう見てもデッカードのセダンだ。ミード御大はここからインスピレーションを得たのだろうか?
trapezoidal(台形の)という表現がぴったりな、シトロエンが1980年のパリサロンにて展示専用車として公開したこの一台。どう見てもデッカードのセダンだ。ミード御大はここからインスピレーションを得たのだろうか?
ラベル:
BLADE RUNNER,
メモ
2009年5月8日金曜日
[メモ] 『BLADE RUNNER』 と『ヨコハマ買い出し紀行』
ポジティブな『ブレードランナー』として『ヨコハマ買い出し紀行』を読む、または逆に、ネガティブな『ヨコハマ買い出し紀行』として『ブレードランナー』を観る、というのが私の基本姿勢になっている。
一般に、かたやディストピアこなたユートピアという分類になっているようで、確かに、雷鳴轟き酸性雨のふりしきる2019年のロサンゼルスがディストピアを、自然がその本来の力を取り戻したことを示すムサシノの並木道がユートピアを、それぞれ視覚的に上手く描写しているというのは理解出来る。
しかし、そこに留まるのは皮相的に過ぎるのではないかと思うのだ。
私は、デッカードがレプリカントであることを明確に示したディレクターズ・カットでようやく、この物語が「闇黒のユートピア」とでも言うべきテーマの上に成立しているという事を確信した。
ガフの折ったユニコーンが「おまえは乙女に心を許しちまったユニコーンだ」という意味から「おまえはユニコーンの夢を見る」という意味に変わった事で、デッカードが蜘蛛の記憶を持ち出してレイチェルに彼女自身がレプリカントである事を確信させたのと同様のことが起こった。これによりリドリー・スコットは(というかハンプトン・ファンチャーは)、ディックが人間とレプリカントの関係を描くことで示した「人間とは何か」というテーマを、レプリカントとレプリカントの関係という形に翻案する事によって深化させたと言える。
リドリー・スコットの意図は、エンディングを陽光の下を車で飛ばす二人ではなく、エレベータの暗がりに消えていく二人に置き換えた点にも見て取れる。二人はまるで闇黒の未来へと乗り出すアダムとイブだ。楽園追放こそが人を人たらしめたのと同様に神の子ならぬ人の子たるレプリカントをレプリカントたらしめるという主張を明確にすることで、この物語はレプリカント版の創世記であるという事を示している。
一方『ヨコハマ買い出し紀行』は「陽光のディストピア」だと言える。
地球上にほんの一瞬だけ繁栄した種が迎えた黄昏と、その種が自らの姿に似せて作ったアルファ型ロボットをとりまく世界を描いたこの物語を単なる「ゆるい」ユートピア論として読むのは、ちょっともったいないと私は思っている。
アルファ型にとってのユートピアは即ち人間にとってのディストピアであるという点について意識が及ばないと「わたしたち、人の子なんですよ(10,p86)」というココネさんの独白の持つ重みを知る事は不可能だろう。『ヨコハマ買い出し紀行』はホーガンも真っ青なハードSFであり文明論なのだ。
というわけで私にとってこの2つの作品は、同じテーマのもとでそれぞれネガ・ポジというカタチで描き出されたものなのだ。
余談:
人はありのままの世界を見ているのではなく自分の見たいように見ているのだと申しますが、本当にそうだなと思う。
私もこの記事を見て「ターポンだ!すげー!」と思ったり、アルファさんとココネさんが互いに知っているはずの無い歌を歌うエピソード(3,p19)を読んで「これこそ生成文法」と妙に納得したことがあったりするんでね。
でもいいじゃないすか。楽しいし。
一般に、かたやディストピアこなたユートピアという分類になっているようで、確かに、雷鳴轟き酸性雨のふりしきる2019年のロサンゼルスがディストピアを、自然がその本来の力を取り戻したことを示すムサシノの並木道がユートピアを、それぞれ視覚的に上手く描写しているというのは理解出来る。
しかし、そこに留まるのは皮相的に過ぎるのではないかと思うのだ。
私は、デッカードがレプリカントであることを明確に示したディレクターズ・カットでようやく、この物語が「闇黒のユートピア」とでも言うべきテーマの上に成立しているという事を確信した。
ガフの折ったユニコーンが「おまえは乙女に心を許しちまったユニコーンだ」という意味から「おまえはユニコーンの夢を見る」という意味に変わった事で、デッカードが蜘蛛の記憶を持ち出してレイチェルに彼女自身がレプリカントである事を確信させたのと同様のことが起こった。これによりリドリー・スコットは(というかハンプトン・ファンチャーは)、ディックが人間とレプリカントの関係を描くことで示した「人間とは何か」というテーマを、レプリカントとレプリカントの関係という形に翻案する事によって深化させたと言える。
リドリー・スコットの意図は、エンディングを陽光の下を車で飛ばす二人ではなく、エレベータの暗がりに消えていく二人に置き換えた点にも見て取れる。二人はまるで闇黒の未来へと乗り出すアダムとイブだ。楽園追放こそが人を人たらしめたのと同様に神の子ならぬ人の子たるレプリカントをレプリカントたらしめるという主張を明確にすることで、この物語はレプリカント版の創世記であるという事を示している。
一方『ヨコハマ買い出し紀行』は「陽光のディストピア」だと言える。
地球上にほんの一瞬だけ繁栄した種が迎えた黄昏と、その種が自らの姿に似せて作ったアルファ型ロボットをとりまく世界を描いたこの物語を単なる「ゆるい」ユートピア論として読むのは、ちょっともったいないと私は思っている。
アルファ型にとってのユートピアは即ち人間にとってのディストピアであるという点について意識が及ばないと「わたしたち、人の子なんですよ(10,p86)」というココネさんの独白の持つ重みを知る事は不可能だろう。『ヨコハマ買い出し紀行』はホーガンも真っ青なハードSFであり文明論なのだ。
というわけで私にとってこの2つの作品は、同じテーマのもとでそれぞれネガ・ポジというカタチで描き出されたものなのだ。
余談:
人はありのままの世界を見ているのではなく自分の見たいように見ているのだと申しますが、本当にそうだなと思う。
私もこの記事を見て「ターポンだ!すげー!」と思ったり、アルファさんとココネさんが互いに知っているはずの無い歌を歌うエピソード(3,p19)を読んで「これこそ生成文法」と妙に納得したことがあったりするんでね。
でもいいじゃないすか。楽しいし。
ラベル:
BLADE RUNNER,
P.K.ディック,
メモ,
ヨコハマ買い出し紀行,
芦奈野ひとし
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