2009年5月8日金曜日

[メモ] 『BLADE RUNNER』 と『ヨコハマ買い出し紀行』

ポジティブな『ブレードランナー』として『ヨコハマ買い出し紀行』を読む、または逆に、ネガティブな『ヨコハマ買い出し紀行』として『ブレードランナー』を観る、というのが私の基本姿勢になっている。

一般に、かたやディストピアこなたユートピアという分類になっているようで、確かに、雷鳴轟き酸性雨のふりしきる2019年のロサンゼルスがディストピアを、自然がその本来の力を取り戻したことを示すムサシノの並木道がユートピアを、それぞれ視覚的に上手く描写しているというのは理解出来る。

しかし、そこに留まるのは皮相的に過ぎるのではないかと思うのだ。

私は、デッカードがレプリカントであることを明確に示したディレクターズ・カットでようやく、この物語が「闇黒のユートピア」とでも言うべきテーマの上に成立しているという事を確信した。

ガフの折ったユニコーンが「おまえは乙女に心を許しちまったユニコーンだ」という意味から「おまえはユニコーンの夢を見る」という意味に変わった事で、デッカードが蜘蛛の記憶を持ち出してレイチェルに彼女自身がレプリカントである事を確信させたのと同様のことが起こった。これによりリドリー・スコットは(というかハンプトン・ファンチャーは)、ディックが人間とレプリカントの関係を描くことで示した「人間とは何か」というテーマを、レプリカントとレプリカントの関係という形に翻案する事によって深化させたと言える。

リドリー・スコットの意図は、エンディングを陽光の下を車で飛ばす二人ではなく、エレベータの暗がりに消えていく二人に置き換えた点にも見て取れる。二人はまるで闇黒の未来へと乗り出すアダムとイブだ。楽園追放こそが人を人たらしめたのと同様に神の子ならぬ人の子たるレプリカントをレプリカントたらしめるという主張を明確にすることで、この物語はレプリカント版の創世記であるという事を示している。

一方『ヨコハマ買い出し紀行』は「陽光のディストピア」だと言える。

地球上にほんの一瞬だけ繁栄した種が迎えた黄昏と、その種が自らの姿に似せて作ったアルファ型ロボットをとりまく世界を描いたこの物語を単なる「ゆるい」ユートピア論として読むのは、ちょっともったいないと私は思っている。

アルファ型にとってのユートピアは即ち人間にとってのディストピアであるという点について意識が及ばないと「わたしたち、人の子なんですよ(10,p86)」というココネさんの独白の持つ重みを知る事は不可能だろう。『ヨコハマ買い出し紀行』はホーガンも真っ青なハードSFであり文明論なのだ。

というわけで私にとってこの2つの作品は、同じテーマのもとでそれぞれネガ・ポジというカタチで描き出されたものなのだ。


余談:

人はありのままの世界を見ているのではなく自分の見たいように見ているのだと申しますが、本当にそうだなと思う。

私もこの記事を見て「ターポンだ!すげー!」と思ったり、アルファさんとココネさんが互いに知っているはずの無い歌を歌うエピソード(3,p19)を読んで「これこそ生成文法」と妙に納得したことがあったりするんでね。

でもいいじゃないすか。楽しいし。

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