2009年7月26日日曜日

[メモ] 詳細不明



ここの上から17番目

2009/12/05 追記:
画像リンク先が消えとりますがな。AAクマーな写真だったんですけどね。

2009年7月25日土曜日

[メモ] 源氏物語がどうしても好きになれない

源氏物語厨である定家は好きなのに、何故なのだろう? ゴシップ誌か芸能人ブログとしか思えない源氏物語と幽玄有心を結ぶものは何なのだろう?

モーツアルト、ビートルズに続いて3つめだ。世評と私観がこんなにもかけ離れているのは。

かくなるは唐変木の業なるや松真木もみぢあはれとぞ思せ

2009年7月23日木曜日

[メモ] 正徹こそは人文系男子のロールモデルなれ

學びえよこひねがはしきみな月の風のすがたを大和ことのは

6月の風の姿という「目に見えないもの」の中にこそ真実があると見抜いた恐るべき民族が住む国、それが日本なんだ、という誇りがこのうたには満ちています。これに比べたら核兵器もアポロも屁のようなものです。

2009年7月20日月曜日

[メモ] 業即是業

訓読するなら「ギョウはすなはちこれゴウなり」で、意味的には「business とは karma そのもの」とすれば理解しやすいと思われる。「何らの罪も犯さずして生きる事など不可能」「生きるとは即ち、自らが罪業にまみれている事を悟りそれでもなお進むという瞬時ゝゝの決断を積分していくことに他ならない」といったところか。

『常用字解』によると「業」は象形で「楽器を並べて懸ける器」とある。この「業」に似た道具で土を搗き固める作業を行った事から「業」に作業・仕事の意味が生じたらしい。business の意が最初に生じたわけだが、では「業」から karma の意が演繹されたのはいつころなのだろう?

この疑問を持ったとき「日本っていったい何なんだろう」という感慨が同時に湧いた。なぜかというとこの疑問に関し「キリスト教には元々『原罪』というアイディアがあったし、仏教でも四大苦の初っ端は『生』だからね」といった借り物の概念を思索の取っ掛かりにしている自分に気付いたからだ。

もちろん契沖・宣長等を入り口に、借り物でない概念を古代に遡って求める事も出来る訳だが、その途中にはやはり和漢朗詠集や本地垂迹といった「ハイブリッド化」のキーワードが転がっている。さらに遡る事も出来るのだろうが、その先にあるものは日本固有なのかそれとも人類普遍なのか?

きりがない。今のところ私が確信を持って言えるのは「日本人として生きること即ちハイブリッド化作業を通じて生きるということにいつのまにかなっちゃった」という程度のことだ。

松岡先生はハイブリッド化などといったケチな了見でなく、広く『編集』という観点から編集的日本人とでもいうべき日本のメソドロジーを探求・紹介しておられます。私にとって果てしなく思える道を往く先生の後ろ姿が遥か遠くに見える。

2009年7月14日火曜日

[メモ] 先生、心中お察し申し上げます

寺田寅彦先生が『連句雑俎』にて、俳諧味という物は日本固有の物だと主張しておられます。

文脈的には、とある論文でチャンバレーン博士(同じ「お雇い外国人」である小泉八雲とも親交のあったBasil Hall Chamberlainのことかと思われる)が言ったとされる言葉を引きつつ日本人は独創能力に乏しいという主張が述べられる一節について、俳諧連句を解せぬ毛唐人どもに何がわかるかと寺田先生が噛み付くという流れ。

文明の普遍と個別を吟味し尽くした寺田先生をして毛唐人どもにありがちな原理主義に陥らしめ「俳諧味は日本にしかない」と逆上させるに至らしめたチャンバレーン博士の暴言はまさに断罪されるべきではありますが、彼と同様の冥府魔道に堕つるは先生の本懐とするところではありますまい。

米国には米国の、独国には独国の、ジンバブエにはジンバブエの俳諧がある、という俳諧味の普遍性を我々に示唆してくださったのは他ならぬ先生であります。その先生が敢て俳諧の独自性を主張するに至る心的環境的経過を察するに、当時の、そして現在に至る「俳諧味を蔑ろにする日本人」のありようが思い起こされ、忍びない物がございます。憂国の士はただ銃刀を手に闘うもののみに非ず。

何にでもケチャップかける國なりとしみじみ笑ふこれも俳諧
松林をオークの森に置き換へてブルックナーは墺の等伯

2009年7月13日月曜日

[メモ] 業務改善に向けての取り組み

  1. 次世代OS模索の一環として、OSを筆硯と料紙に戻す
  2. 業務報告はやまとうたフォーマットで提出する 例)春の夜の夢ばかりなるブレストに かひなく立たむデスマ惜しけれ
  3. 女子社員は就業中、御簾をおろしておくこと
けっこう良い線いくと思うんですが、どうでしょう?

[メモ] トンデモにつき注意

Googleの大企業病が進行している。某OSのようなラインナップ乱立の萌芽が見え、企業コンピタンスが、多角化とか競争力といった美名のもと、曖昧になり始めている。これは「Googleがテクノロジー指向の会社ではなく営業指向の会社になった」ということの現れでもあり、良く言えば「大人な会社」になったということを示している。

残念なのは日本のWebではなくGoogleの方なのかもしれない。ChromeOSに某社の椎茸栽培と同様の匂いを感じるのは、多分、私の嗅覚がおかしいからなんだろう。そう願いたい。

2009年7月9日木曜日

[メモ] 入れ喰いですな、Googleさん

[Google Operating System] Google Chrome Operating System

正直言って新規的要素は全くなく、マーケティング要素しか見当たりません。

「Webアプリケーションフレームワーク・関係代数の黄昏・分散オブジェクトの最終進化形といった既に公表済みの要素技術群をパッケージングし、それに『OS』という人口に膾炙した名前を付けてプレゼンを行いました」といったところでしょうか。

これを見てパラダイムシフトとか言ってる人は「OS Doesn't Matter」というか「OSなんてとっくの昔にコモディティ化してる」という事実に気付いてないのでしょうか。だいいちクラウドOSなるものが直接ハードウェアアクセスを行うわけなどなく、その下位にはこれまでと同様のクラシカルなOSカーネル(そういやgOSなんてのもありましたな)が存在するわけでしてね。

まぁ、経営・コンサル寄りの方々からすれば「主戦場はクラウドへ」といった感じの美味しいバズワードが振りかざせる訳で、その気持ちもわからんわけではないんですが、実装・アーキテクチャ寄りのedgyな方々からすれば相変わらず単なるフレームワーク取捨選択の問題でしかないわけで「何も変わってねーよ。それよりErlangやろうぜErlang」といった感じなのではないでしょうか。

Googleの先走り汁であるところのGearsもClient-side Storageという観点からすればlocalStorage/sessionStorageへと収束しそうですし、見た目(aesthetic)についてもcanvas,audio/videoタグがGeckoを始めとする先進的エンジンに着々と取り込まれつつある現状を見るに、少なくともクライアント側についてはこれまで同様の「HTML5への流れ」でしかないわけで「大勢に変化無し」ということでよろしいのではないでしょうか。

いつの時代にも存在するパフォーマンスや実行セキュリティといった問題についてGoogleがどう手を打つかという技術的興味はありますが、そういった定量的側面については、V8などを例に挙げるまでもなく、ただ粛々と事を進めて下さるものと存じます。

それにしても「UbiquityこそOSだ」という指摘が皆無なように見受けられるのはまことに遺憾であります。operationの現場をWebレイヤに引き上げ、CUIという実にOS然としたかたちで示しているというのに。

ということでChrome OS単体ではさほど興味をひかなかったのですが、タイミング的に重なったことでちょっと状況を面白くしてくれたものがあります。Amazonがモバイル環境でのAPI利用制限を開始した事と、これに関するマッチポンプ的施策のことです。これには「そこまでやるか」感と「普通そうくるわな」感が同時に胸中に湧き、まことに興味深い物がありました。

こういった各社の動向を見るに、どうやら垂直統合への流れは変えようも無く、Webにおけるブロック経済圏成立が目の前に迫っているようです。私見といたしましては
  • こういったブロックはプロダクトレイヤ(インフラとプラットフォーム)でのみ見られ、ユーザが直接触れるサービスレイヤでは、サービスの相互接続性確保により、ブロック経済化による影響は出ない(プロダクトとサービスがそう綺麗に分けられるのか?という疑問は置いといて)
  • Webにおける関税障壁とでもいうべき『何か』が発生する
という楽観/悲観があるのですが、どうなりますか。相変わらず面白い世界です。

レッドオーシャン上等な勇者の皆様方におかれましてはどちらに転んでも関係無いっすね。御武運を。私はヘタレなので、ちまちまやらせてもらいますわw

[メモ] 高昌の争亂を見て詠める

いさかひぞ うきものなれど ふしぎなる
りをたねとしつ りのたねなれば

2009年7月7日火曜日

[メモ] 木苺ちまり、缶崎匠太郎、エレン・オーレウス

『よみきりもの 第8巻』のなかがき(p. 152)で示されているように、ちまりと匠太郎は同じ魔法世界に属している。同ページの「設定が同じなだけで、登場人物はかぶったりしてません」という記述や、匠太郎の世界がノームやドラゴンが当たり前のように存在する世界であるのに対しちまりの世界はそうではないという点から見て「共通の魔法体系を持った2つのパラレルワールド」と見るのが妥当かと思われる。

この魔法世界における魔法は月の魔法と星の魔法の2つであり、ちまりは月の魔法、匠太郎は星の魔法という分類になっている。『ちまりまわるつ』所収『3/4くるく ちまりまわるつ』の p. 12 [ミッシイコミックスDX] では、この月と星の2分類とそれぞれの等級をあらわすシンボルステッキが示されている。匠太郎はこのページで示されているトゥインクルスター級(最高位のひとつ手前)シンボルステッキの保持者であることが『よみきりもの 第8巻』所収『こげたトンネル事件』の p. 116 で示されている。

『ちまりまわるつ』所収『ちまちまじっく』第1話、及び『きいちご魔法店へようこそ』で出現する「きいちご魔法店」の看板(p. 41 及び p. 86 [ミッシイコミックスDX] )にみられる「マハリク教会派」という記述から「マハリク教会派=月の魔法」という分類を行う事は当初から可能だったのだが「それなら星の魔法はなに派?」といった点も含め、この分類の妥当性はいわゆる『出し直し版ちまりまわるつ』[朝日ソノラマ]の出現まで疑問符が付いたままであった。

同書で追加されたなかがき(p.123)では星の魔法と月の魔法に関し「基礎を覚えたあとは、どちらかに進みます。適性がどうとかじゃなくて流派みたいなもの」という明確な記述が行われており、マハリク教会派と対を為す組合教会派の存在と、さふらんかえでが組合教会派に属する事が併せて示されている。これにより「マハリク教会派=月の魔法」「組合教会派=星の魔法」という分類の妥当性はほぼ確立された。

匠太郎が組合教会派に属するという明確な記述は今のところ無いし、『ちまりまわるつ』の外伝的存在である『世の中なまほう』でも、ちまりはまだ3級(かえではおそらく2級)であり未だ上級シンボルステッキを持つに至っていないので、今後のエピソード展開によりこの星と月の2分類に関する詳細が明らかになってくるであろう。

なお、星の魔法の最高位がゴールドサンであることからみて、この分類は月と太陽すなわち我々の世界における陰陽という観点から捉えることも可能であるという点は興味深い。

ふわふわエレンことエレン・オーレウスは、流石に不老不死を得た伝説の魔法使いだけあって、こういった魔法分類の範疇から逸脱した別格の存在であるように見える。

シンボルステッキや『MAGIxES』における魔法道具のような触媒的物質なしに魔法を発動するその能力は、ちまりと匠太郎の魔法世界や『MAGIxES』の魔法世界に見られる「工業化・コモディティ化した魔法」とは異なる「プリミティブな魔法」を色濃く反映している。

この点において、エレンの世界は我々の世界だと言う事が出来る。つまり魔法がファンタジーたりえる世界である。

[メモ] もののなふしもの

『みみだったりみみだったり』が『世の中なまほう』の系列に属するということについては、メイキングで先生が明らかにしてくださった時点でようやく気付いた。制服を見た時点で気がつかなかった私はまだまだ未熟者であります。「あんたはホロですか」とか言ってる場合じゃなかった。

で、コマ間装飾で犬が列挙されているのに既視感を感じて『世の中なまほう』を引っ張りだしてみたら、ことごとく同様の事が行われていて驚いたわけです。先生の御心配り深甚にて、なかがきでタイトルまで銘記して下さっています。
  • 『魔法使いなきっかけ』→ 鳥類大図鑑
  • 『魔法使いはねぼけてる』→ 夏の風物詩
  • 『魔法少女はウィンク』→ 冬の風物詩(なかがきでは銘記されてないけど明確ですな)
もしかしたらということで、ちまりちゃんつながりで『ちまりまわるつ』も引っ張りだしてみたら、うは、やっぱり。
  • 『3/4くるく ちまりまわるつ』→ 動物大百科
  • 『ちまちまじっく 第1話』→ 仔猫の冒険
  • 『ちまちまじっく 第2話』→ うさぎのちまり観察日記
  • 『ちまちまじっく 第3話』→ 世界の楽器大集合
  • 『きいちご魔法店にようこそ』→ ねこめーわく進化論 (モノリスってのがまたw)
ここまで来てようやく気付き『みみだったりみみだったり』のなかがきを見ると「世界の犬 大集合」ときちんと銘記されてましたわ。

以上の点から観るに、どうやら先生は、先生が分類するところの「魔法もの」のうち「ちまり系(これは私の勝手な分類)」すなわち木苺ちまりが存在する世界を描いた作品ではコマ間装飾で遊ぶというルール設定をされているようです。同じ「魔法もの」であっても、ふわふわエレンや匠太郎の世界とはこういった点で差別化を図っておられたというわけです。

流石は先生。名は体を表すということで、ちまり系ではちまちまと描き込むということなんですね。

[メモ] ふわふわエレン復帰記念

しみづわく たけのもとなる いづみかな
うじやうじやこそは そのこはねなれ

そう言えばサーカスの話で、昔はロケットショーとかもあって云々という言及があり、これってつぐみのハイジことロケットガールだよね、ということで久々に『はたらきもの』を引っ張りだして確認しましたわ。

関係ないけど「声音=こはね」という正仮名振りには未だに違和感がある。「声=こゑ」なんだから「声音=こわね」じゃないのか、と思ってしまうのだ。

[メモ] 推敲

『連環記』は hyperlink と訳すべきかそれとも linked list と訳すべきか。

[メモ] 世遷れどかはらじとて

思うに、仏名会もアイドルのコンサートも参集者のメンタリティは変わらない。

三千仏の御名前も「ジュリー!」(古いねどうもw)という黄色い叫びも、声を発することで対象との一体感を増進せしめんとするメンタリティは変わらないのだ。

2009年7月6日月曜日

[メモ] ESRの化けの皮がはがれてきたってことだろ?

とかいうとマイクロソフトの回し者とか思われるんだろうが、逆で

オープンソースなんていうわけのわからんオレオレ定義を使うのは止めて、フリーソフトウェア運動に還れ


ってことなんですわ。

伽藍とかバザールとかいった開発形態の違いなんて「自由」とは何の相関も持たないし、第一 openness なんてものは「自由なソフトウェア」成立の為の必要条件にはなり得るけど十分条件には絶対になり得ないだろ。

まぁ、銃ぶっぱなすのが大好きなタカ派野郎が作り出したマーケティング用語に皆さん上手く乗せられたってわけだ。RMSは最初から言ってたじゃん「あんなのと一緒にすんなボケ」って。


2009/07/10追記: どうにも言葉足らずで「オープンソースプロダクトおよび支持者そのものに対して噛み付いているような印象を世間に与える」内容だったので、タイトルも含めてreviseしました。

2009年7月4日土曜日

[メモ] ごめんね要領わるくて

最初はフルスクラッチでごりごり書く。それが俺のジャスティス。

あとでライブラリとかフレームワークを使い始めると、車輪の再発明しまくりだった自分に気付く。

だが、それがいい。

2009年7月1日水曜日

[メモ] 自戒、もしくは宣戦布告

手段と目的を混同してしまっているようだ。手段、すなわちテクノロジーやツールやソリューションの追求というものはそれ自体が麻薬のような快楽をもたらすので、ついそのレベルで拘泥してしまうのだ。らっきょの皮を剥き続ける猿のように。

言うまでもないが、ビジネスというものも目的ではなく手段である。確かにビジネスを囲碁や将棋と同様の「ゲーム」と捉え、我々はそれをプレイしているのだと考えれば目的そのものだと言う事も出来る。だが「生きることそれ自体は目的ではない。手段だ」という観点からすれば、やはりビジネスもまた手段なのだ。

「IT托鉢の分際で、でけぇ口叩くなw」と我ながら思うが、なりふりかまわずIT小作を18年やったおかげで、ある程度のタマは蓄積出来た。さすがに「あと10年は戦える」というのは無理だが、5年くらいは暴れてみせましょう。