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2010年5月30日日曜日

[Apple] 譜面台にiPad



ウケ狙いでやってみたのですが、結構使えるんですわコレが。譜面として使うだけでなく、マイナスワンコンテンツなんかもiPadに入れときゃそのまま使えるわけで、機材が非常にすっきりしましたよ。この写真ではパート譜を出しているわけですが、オケ聴くときなんかは、当然、膝の上に置いてスコアを表示するわけです。「うは、これハース版やった。オレ耳悪過ぎw」といった痛し痒しもあって、なかなか楽しめました。

バランスと利便性のことを考えるならば、こりゃもうあれですな、もう1台追加で買うしかないですな。でもって、iPad#1には偶数ページ、#2には奇数ページを表示し、ページ送りイベントは Bluetooth経由でやりとりするということでどうでしょう?。うは、仕様書書きたくなって来た。嘘ですw。見開きタイプのデバイスはずっと前からコンセプトレベルで存在していたわけですから、その登場を待つというのが得策ですね。今やこんなのもあるわけですから、A4・B5といったサイズバリエーションのある汎用譜面というか汎用リーダーが出てくるのもそう遠くないでしょう。あとは書き込みへの対応ですな。紙と鉛筆のユーザビリティに追いつくまで、あと何十年かかりますかね。アルファベット文化圏限定だったら、気合い入れりゃ1年で追いつけそうですけどねw。

「家電のコンピュータ化」「コンピュータの家電化」どっち?というのは前世紀から議論が続いているテーマなわけですが、結局のところこの2つは車の両輪であり、家電(というかコモディティ)がコンピュータ面をするフェーズとコンピュータがコモディティ面をするフェーズがある、というだけのことです。ちなみに今どっちのフェーズなの?という点については単純にコストを見ればわかります。コンピュータががんがん安くなる時期は「コンピュータのコモディティ化」フェーズだってことですね。久夛良木氏は「家電のコンピュータ化」しか考えていなかったのでコケたわけですが、iPodからこのかたコモディティ面をしたコンピュータが大挙して押し寄せて来た時期に、その逆を行ったわけですから、当然っちゃ当然なのであります。コモディティの一典型である「譜面」という顏をしたiPadをいま目の前にして、IT小作をやっていた頃に考えていたそんな諸々の妄想が蘇り、感慨深いものがございます。

以上、電子書籍には活字や漫画だけじゃなくこういったジャンルもあるんすよ、ということで、関連各社の皆様方におかれましては是非一度ご検討いただきたく存じま す。

2010年1月18日月曜日

[Wozzeck] クリーゲンブルクは単なるバカ

[新国立劇場HP] オペラトーク「ヴォツェック」の模様を掲載①
[新国立劇場HP] オペラトーク「ヴォツェック」の模様を掲載②

「おさなごのわれにきたるをとどむな」(マルコ 10:14)に関してググっているうちにこのページに突き当たったわけだが、一読してひっくり返った。何なの? このクリーゲンブルクっていうアホは?

1幕3場をピアノ伴奏でヴォツェックとマリーが歌うという演し物(「舞台裏の軍楽隊〜マリーとマルグレーテの口喧嘩」は省略して子守唄からかな?)があったようなのだが、この部分に関するクリーゲンブルクの主張が、どう考えても狂っているのだ。
アンドレアス・クリーゲンブルク氏(以下、クリーゲンブルク):
私にとってこの最初にヴォツェックとマリーが一緒に登場するシーンというのは、家族がどういう意味を持っているかということを表すシーンです。常に痛めつけられ貧困にあえぎ、そして仕事に追われるつらい立場にいるヴォツェックにとって、家族というのは唯一庇護を与えてくれる最後の逃げ場です。この最初のシーンは作品全体を通して唯一、ヴォツェックの人物像に多少落ち着いた雰囲気とか、リラックスした表情が見られるシーンです。それは取りも直さず彼が自分の妻と子供に愛情を抱いているということの表れです。
はぁ? なにそれ? あんた本当に台本読んだ?

家に入るようマリーが言っても "Kann nit ! Muss in die Kasern.(駄目だ、点呼があるんだ)" と言った挙句、前場の黙示録的妄想を引きずったまま訳の分からないことを口走るヴォツェック。マリーはそんなヴォツェックに "Dein bub ...(あんたの子供だよ)" と子供の顔を見せて正気を取り戻させようとするが、ヴォツェックはその子供も目に入らない放心状態で "Jetzt muss ich fort.(もう行かなきゃ)" と足早に立ち去る。そんなヴォツェックを目にしたマリーは "Er schnappt noch über mit den Gedanken(考えすぎて気が狂ったんだわ)" と恐れ、挙句に "Wir arme Leut !(私たちは貧乏人なのよ!)" と叫ぶ。

1幕3場とはそんなシーンだ。それを「作品全体を通して唯一、ヴォツェックの人物像に多少落ち着いた雰囲気とか、リラックスした表情が見られるシーンです」ってアンタねw。

さすがに司会の長木 "セクハラ" 誠司センセイもおかしいと思ったようで
長木:
台本の中で、ヴォツェックは子供の顔を見ないで立ち去ってしまったりもしますが、これはどういうことなのでしょう。
と突っ込むのだがクリーゲンブルク大先生も負けじと返す
クリーゲンブルク:
ヴォツェックは子供に対して十分なことをしてやれないという罪の意識を常に抱えています。そして子供の方もまた、そういうつらい立場に置かれた父の姿を見ているわけです。そうした複雑な関係の父と子であるがゆえに、罪の意識を持っているヴォツェックはまともに自分の子供の顔を見ることができないのです。それはお金を稼ぐために家族を置いて出かけなければならないヴォツェックの非常につらい心情を表しています。
うはw、牽強付会じゃなくて本気で言ってるとしたら本物のデムパですな、このヒト。

「まぁ所詮は演出屋だし、しゃーないわな」で済ませて読み進めると、今度は指揮のヘンヒェンが変なことを言い出した
ハルトムート・ヘンヒェン氏(以下、ヘンヒェン):
 (途中省略)
非常にエキサイティングな瞬間として、先ほどの場面(1幕3場)の中にハ長調の和音が登場する箇所があります。それがまさにヴォツェックがマリーのところに戻ってきて、お金を持ってきたと伝える箇所です。その瞬間だけ「これで世の中がうまくいくんだ」という思いを抱かせるようなシーンです。ヴォツェックにとって唯一大切なことは、なんとか家族を養いたいということだけです。先ほどクリーゲンブルクさんがおっしゃったように、常にそれがうまくいかないからヴォツェックは良心の呵責を感じている。自分はいい夫ではない、子供にとっても良い父親ではない、そういう罪の意識に苛まれている。でも彼が求めているのは自分の小さな家族のなかでの、本当にささやかな幸せです。それが、彼がお金を持って帰ってきたときに一瞬だけうまくいっているように見えるのです。ただこのハ長調の和音というのも、周りにあまりにも色々な音が入っているのでハ長調とはほとんど気づきません。
突っ込みどころはとりあえず2点。
  1. クリーゲンブルクの珍妙な解釈を容認している
  2. そのハ長調って1幕3場じゃなくて2幕1場じゃね?
まぁ2については単なる勘違いだとして、さらに奇妙なのは一番最後の「ただこのハ長調の和音というのも、周りにあまりにも色々な音が入っているのでハ長調とはほとんど気づきません」という部分。

うそーん。そんなわけないやん。ということでスコア引っ張り出して確認しましたがな。2幕1場の小節番号で言えば116小節目、鳴ってるのは2番バイオリン(C)とビオラ(E,G)だけでっせ。他に何も鳴ってないやん。

変だなぁと思いながら読み進めたんだが、②ページ目に入ってから驚愕の事実が判明した
クリーゲンブルク:
舞台に張った水については、ふたつの意図があります。
ひとつは私たちが見るヴォツェックの世界が、非常に居心地の悪い、常に湿って汚れている、じめじめとした嫌な雰囲気であることを表しています。
もうひとつは音響的な面について、水を使うことで補足をしたいという意図です。ベルクの音楽は非常に構造を意識したもので複雑です。そこに水の撥ねる音、私たちが知っている自然に響く音を加えることにで、舞台の世界があまりにもかけ離れたものにな らないようにするという狙いがあります。誰もが知っている水の撥ねる音がすることによって、私たちの感情に近い、触れ合える世界にしたい。
これかい!この水音でぶちこわしになっとるんかい! なんかもう「ざけんな!」としか言いようがありませんな。カーテンコールでは演出スタッフが出た途端にブーイングの嵐だったそうですが、そりゃそうでしょう。この舞台に音楽は存在しなかったというのがまるわかりですね。

しかし、ヘンヒェンも良くこんなノイズの混入を認めましたな。あれですか、大人の事情ってやつですか。あはは、それじゃしょうがないですね。なわけねェだろボケ!

ここまで読んでイヤな予感がしたのでこのページを見たら「大絶賛」とのことw。はぁ、私ゃもう、単なる商品なんかにゃ興味ありませんよ。勝手にやっててくださいな。音楽をコンビニ商品レベルにまで引きずり下ろしたお前らに、ミューズの囁きなんか聴こえるわけもないんだしな。

2009年11月17日火曜日

[37signals] Rodrigo and Gabriela は Getting Real の音楽版

(原文: Getting Real (the musical way) with Rodrigo and Gabriela

Signal vs. Noise の読者であり JobChoy の創立者でもある Mark Meeus の投稿:

Rodrigo and Gabriela と彼らに関する逸話について諸君が御存知かどうかは私にはわからないが、もし御存知であればこれ以上は読まなくても良いよ ;-)

私が彼らについて諸君にかいつまんで説明したいというそのワケは、彼らが、WEBアプリケーション以外でもあてはまる Getting Real の良い例だからだ。

Rodrigo and Gabriela はメキシコシティでヘビメタバンドのギタリストとして活動を始めた。音楽だけで生計を立てるというのが彼らの人生における目標だったのだがそれは上手く行かなかった。二人ともメキシコシティ音楽院の入試は不合格となり、バンドも思ったほど伸びなかった。

そこで彼らはアコースティックギターのみを手元に残し、残りの機材全てを売り払うことにした。彼らはダブリンに移り、そこでバー・ストリート・地下鉄の駅での演奏を始めた。

最初のうちは Metallica のカバー曲を演っていたが間もなくして物足りなさを感じるようになり自らの曲も演るようになった。

彼らはお金を稼ぐ必要があったので、音楽を「最適化」しなければならなかった。曲を書いたら、それがどの程度の稼ぎになるかを見極めるためにライブでテスト演奏し、ちょっと書き換えてそれがどの程度の稼ぎになるかを見極め、さらにちょっと書き換えて・・・(これって A/Bテストの音楽版だね)(訳注: A/BテストはSEM業界などで知られている手法で、既存のものをA、修正を加えたものをBとして比較テストするという手法)

しばらくして、彼らはお金をやりくりして他の街にも行くようになり、それにつれて、より多くの聴衆と名声を訪れた先々で得るようになった。

2006年にアルバム『Rodrigo y Gabriela』をリリースし、アイルランドのヒットチャートを席巻したが、これはインストバンドとしてはかって例を見ないものだった。

さて、この話のどの辺りが 'Getting Real' なのだろう?

彼らは「ギター2本だけなんて無茶」と説く連中の言葉には一切耳を傾けなかった。
  • チーム構成員は2人だけ!
  • 外部からの出資は一切なし(今となっては珍しくもないが、彼らは2000年以前にこれをやってのけた)
  • ギター2本だけの構成なのでメンバー間の意地の張り合いが普通のバンドよりも抑えられる
  • 情熱
  • お金もギター以外の楽器も一切無い、という制約
  • 彼らの音楽にふさわしい聴衆を集め、聴衆の求める音楽に的を絞った
  • 「自分の音楽」というものへのこだわり
  • 曲を書いたらすぐにストリートで演奏するという、無茶苦茶といえば無茶苦茶な、テストドリブンな曲作りを武器に出世競争に臨んだ
こういったことを抜きにしても彼らの音楽は本当に素晴らしいんだけど、このことを頭の隅に入れておけば、またひと味違ってくるんじゃない?



訳者コメント:
バカテクなのに全然バカテク臭くない。豪快なのに濁りが無いのはミュートが完璧だからですね。エレアコ2本でこれだけシンフォニックな響きを出すには、必要なノイズを積極的に取り込む姿勢が要るわけですが、逆に不要なノイズは極力排除しなければならないわけで、その結果、この完璧なミュートが自然と身に付いたんでしょうね。呼吸するように、当たり前のように精進している人々の好例です。


シメがスペインってのがこれまた。