フローとしてのメディアは全てビットに移行するが、ストックとしての、アーカイブとしての、そして語り部としてのメディアは絶対に無くならない。部分の総和が必ずしも全体を意味しないのと同様、フローをいくら積み上げてもストックにならないのが現実というものだ。フローをストックにするには、編集が、悪く言えば抽象捨象という改竄が必要である。我々は恣意性という害毒なしには、個人レベルでも社会レベルでも、現実を認識する事は出来ない。神ならぬ、我ら死すべき人の身は、現実を現実のままに認識出来るほど上等な生命体ではないのだから。
これは恐らく、人間におけるDACの精度の問題とかじゃなくて、方法論の問題だ。現状のハード・ソフト構成手法に拘り続ける限り、我々は量子化誤差から逃げられないし、現実の帯域を前に、いつまでたっても折り返しノイズという幽霊に悩まされ続けることになる。
面白いのは、ビットの世界では人が語り部になるという点だ。つまり、情報が主で人が従ということである。これは一種の先祖還りであり、メディアというものが、ぐるっと一周してアルタミラ以前に戻ったのだとも言える。人そのものがメディアになるということであり、プレヒストリーへの回帰なのだ。ヒストリーにおいてはフィクションが、恣意性が作り出したフィクションが社会を繋ぎ止めて来た。それが無くなるという事は、つまり、身も蓋もない社会がまたやってくるということなのだろう。それは楽しみであり、同時に、恐怖である。
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